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  • 日本の買い手は、本当に薄いのか——海外VCが押し上げる「第4の買い手層」

    日本の買い手は、本当に薄いのか——海外VCが押し上げる「第4の買い手層」

    日本の買い手は、本当に薄いのか——海外VCが押し上げる「第4の買い手層」

    はじめに:買い手は、本当に薄いのか

    日本のスタートアップM&Aについて、以前に「問題は件数ではなく買い手能力である」という整理を書いた。赤字の成長企業を継続的に買い、事業に組み込んでいく組織能力が、事業会社・PE・海外の戦略買い手のいずれの層でも薄い——という診断だった。

    この見立て自体は、いまも変えていない。ただ、あの3つの層には共通点がある。どれも「既にある大きな組織」だ、ということだ。買い手を探すとき、私たちは無意識に、スタートアップより上の階層を見上げている。

    では、買い手はそこにしかいないのだろうか。

    先に断っておくと、これから紹介するデータは、買い手が薄いという診断そのものを覆すものではない。ただ、これまで数に入れていなかった買い手がいる。

    本稿は、筆者がSSRNに公開した研究 Same Capital, Different Absorption: Foreign Venture Capital and Startup Acquisition Channels in Japan and Singapore(2026年6月)の紹介である。この研究が扱ったのは、これまでほとんど正面から測られてこなかった問いだ——VCから資金を受けたスタートアップ自身が、買う側に回るのか。そしてその買収は、どこへ向かうのか。

    結論を一行で言えば、こうなる。海外VCは、日本のスタートアップを海外へ連れ出すだけではない。日本企業を買える会社に育てている可能性がある。

    日本とシンガポールの10,051社(日本6,277社、シンガポール3,774社)を、2010年から2024年まで追った。データはPitchBookで、上場企業の分社や海外からの移転などを外すための厳格な絞り込みをかけている。

    1. 見落とされていた「第4の層」

    まず、事実から置きたい。

    日本のVC投資先スタートアップのうち、観測期間中に一度でも買収する側に回った企業は6.6%(413社)ある。100社に7社弱、と言い換えてもいい。決して主流ではないが、例外的な逸話でもない規模だ。

    そして、この比率は一様ではない。海外VCが入っていない企業では5.85%、入っている企業では13.39%——倍以上の開きがある。シンガポールでも方向は同じで、5.35%に対して8.07%だった。

    つまり、日本の買い手層を数えるとき、事業会社・PE・海外戦略買い手の3層に加えて、スタートアップ自身という第4の層が存在している。しかもその層は、海外資本が入っている企業ほど厚い。

    ここで、この第4の層がどこを買っているかを見ると、話が面白くなる。日本のスタートアップが買収した相手の所在地は、国内が81%。米国が8%、ASEANが3%、その他が8%である。最初の一件に限って国内か海外かで分けても、日本は88%が国内向けだった。

    海外の資本を受け入れた企業ほど買収する側に回り、その買収先は圧倒的に国内である。この形は、少し立ち止まって考える価値がある。

    2. 両国で同じように起きること

    順を追って分けて考えたい。海外VCが入ったときに起きることには、日本とシンガポールに共通して起きる部分と、国によって違う部分がある。

    まず、共通して起きる部分。海外VCが参加したラウンドは、調達額が大きい。日本で約+99%、シンガポールで約+106%——おおむね倍増である。これは両国で同じように観測された。

    そして、買収する側に回る確率も上がる。両国をまとめ、業種構成の違いを調整したうえで推定すると、+7.19ポイント(パーセントポイント=比率そのものの差。6%が13%になれば+7ポイント)。もとの比率が約6%なので、およそ倍になる計算だ。

    ここまでは、直感どおりと言っていい。資本が増えれば買う体力もつく——企業金融の研究が繰り返し確認してきた関係である。

    問題は、その先だ。増えた資本は、どこへ向かうのか。

    3. 同じ企業の中で、国内と海外は別の理屈で動いている

    ここが、この研究でいちばん意外だった部分だ。先に結論を書く。

    海外買収が増える理由は、ほぼ「お金が増えたから」で説明できた。一方、国内買収は、お金が増えたことだけでは説明できなかった。

    順に見ていく。

    「海外VCを入れると、会社が海外に出ていく」——という見方は、日本ではよく聞く。海外資本が入れば、視線は海外に向き、買収も海外案件になり、いずれ会社ごと海外に持っていかれるのではないか、と。

    データを見ると、たしかに日本企業の越境買収も増えてはいる。海外VCが入った日本企業は、越境買収をする確率が+1.73ポイント高い。ここまでは直感と合う。

    ここで、ひとつ確かめたいことが出てくる。「海外VCが入った企業は、単に調達額が大きいから買収しているだけではないか」という可能性だ。資本が潤沢なら、買収相手が国内だろうと海外だろうと、買う件数そのものが増えて当然である。そこで、買収前までに調達した資本の量の違いを統計的に調整する——つまり「お金が増えたから」という影響をできるだけ取り除いて、なお差が残るかを見る。

    越境買収では、この差は消えた(−0.08ポイント、統計的に意味のある差とは言えない水準)。つまり、越境買収が増えたのは「海外VCが入ったから海外を向いた」のではなく、「海外VCが入って資本が増えたから、買収そのものが増えた」——その内訳として越境が含まれていた、という説明で足りてしまう。

    国内買収は違った。海外VCが入った日本企業は、国内買収をする確率が+6.49ポイント高い。そして資本の量を調整してもなお、+3.60ポイントが残る。減ったのは半分ほどで、残り半分は資本規模では説明がつかない。

    同じ企業の中で、国内チャネルと越境チャネルが別の理屈で動いている。越境は資本の大きさで説明できるが、国内はそれだけでは説明できない何かが残る。 「海外VCを入れると外へ出ていく」という直感は、少なくともこのデータでは支持されなかった。

    4. なぜ日本だけ残るのか——対照群としてのシンガポール

    では、その「資本の大きさでは説明できない何か」とは何か。

    これを見るために、この研究はシンガポールを対照群に置いた。シンガポールを手本として持ち出すためではない。日本の輪郭を浮かび上がらせるための比較対象としてである。

    両国は、企業の買収先が国内に向くか海外に向くかを左右しそうな条件が、揃って逆を向いている。法体系(大陸法と英米法)、事業の言語(日本語と英語)、国内IPO市場の厚み(日本は年100社を超えるが、シンガポールは年10社未満でテック企業の上場は実質国外)、そして国内市場の大きさ(日本の国内需要だけで事業が成り立つ規模に対し、シンガポールは早い段階から域外へ出ざるを得ない)。日本は「閉じた側」、シンガポールは「開いた側」に、4つとも同じ向きで並ぶ。

    結果は明快だった。シンガポールでは、海外VCが入っても国内買収への偏りが日本ほどは見られない(両国の差は−5.66ポイント、資本の量を調整しても−4.88ポイントが残る)。逆に越境買収については、両国の差は統計的に意味のある水準に届かなかった(+0.42ポイント)。シンガポール企業が越境買収に向かうのは事実だが(初回買収の63%が越境。日本は12%)、それはもともとそういう生態系だからであって、海外VCが追加的に越境へ向かわせているとまでは確認できなかった。

    つまり、日本で観測されたことは「海外VC一般の効果」ではない。日本の市場と制度の組み合わせのなかで起きている可能性が高い。

    ひとつ、正直に線を引いておきたい。2国を比べる設計では、4つの条件は常に束で動く。「言語のせいだ」「IPO市場の厚みのせいだ」と個別に切り分けることは、この設計ではできない。 4つの向きが結果と揃っていることを確認できるだけである。

    5. 何が言えて、何が言えないか

    整理すると、こうなる。同じ海外VC資本でも、企業を大きくし、買い手に変える力はどちらの国でも同じように働く。違うのは、その増えた力がどの方向へ吸収されるかだ。 日本では、それが国内買収という経路に、資本の大きさでは説明しきれない形で流れ込んでいる。

    ここから何が言えるか。

    前提として、海外VCの流入を評価するときには、「資本が入ること」と「その資本がどこへ吸収されるか」を分けて見たほうがよい。海外マネーの流入をめぐる議論は、しばしば「技術や企業が流出するのではないか」という懸念と一体で語られる。だがこのデータで観測された日本の姿は、むしろ逆に近い。海外資本を受け入れた企業の買収活動は、結果として国内企業の買収に強く向かっていた。

    そのうえで、立場別にもう一歩具体化してみたい。

    スタートアップ政策にとっては、Exitを増やす道筋がひとつ増える。買い手を厚くするというとき、議論はほとんど「大企業にスタートアップを買わせる」方向に向かってきた。だが、成長したスタートアップを次の買い手として育てる経路もある。その意味で、第4の層は、従来の買い手とは異なる評価軸を持ちうる。

    VCにとっては、投資先の成長支援がIPO支援に限られないことを示す。M&Aによる非連続な成長を選択肢に含められるかどうかで、支援の幅は変わる。スタートアップ経営者にとっては、Series B以降の選択肢に「売られる会社になる」だけでなく「買う会社になる」が並ぶ、ということだ。

    ただし規模については冷静に見ておきたい。買収した経験を持つ企業は日本全体で413社、そのうち海外VCが入っていたのは81社にすぎない。第4の層は既に動いているが、厚いとは言えない。 記事「買い手能力」の診断——買い手が薄い——は、これで覆るものではない。

    そして、言えないこと。この研究は相関を示したものであって、因果を確定したものではない。論文自身、「強い関連と、仕組みと整合的なパターン」という水準で結論を置いている。

    とくに残る可能性は、選択の問題だ。海外VCが、もともと国内で事業を統合していくタイプの日本企業を選んで投資している——という説明を、完全には排除できていない。この可能性を下げる検証は行われているが、「主要因としては支持されない」と言えるところまでで、「否定された」とは書かれていない。ほかにも、データベースの捕捉には偏りがありうること、2010年代に調達した企業の10年を超える帰結はまだ見えないことが、限界として明示されている。

    おわりに:3つの研究がつくる地図

    本稿の元になった論文は、筆者がここ数年進めてきた一連の研究の3本目にあたる。それぞれ別の問いを扱っているが、並べると1枚の地図になる。

    1本目(政府系VCはスタートアップのどの段階で効くのか)は、いつの話だった。公的資本が直接投資として入るとき、その効果はSeries Bという特定の段階に集中していた。

    2本目(政府はGPになるべきか、LPになるべきか)は、どう入るかの話だった。政府が黒子としてLPに回ると、VC会社そのものを強くするというより、VCの中で案件へのお金の配り方が変わっていた。

    そして3本目である本稿は、入った資本がどこへ向かうかの話だ。同じ資本でも、受け入れる側の制度によって、吸収される先が変わる。

    段階、チャネル、そして吸収先。資本が誰の手に渡るかだけでなく、渡ったあとどこへ流れるかを見ないと、その資本が何をしたのかは分からない——3本を通じて残ったのは、この感覚である。


    Disclaimer

    本稿は、Nakatsuka (2026) “Same Capital, Different Absorption: Foreign Venture Capital and Startup Acquisition Channels in Japan and Singapore” (SSRN: 6980818) の紹介として、独立した個人研究の立場で執筆されたものである。原論文は PitchBook の商用ディールデータおよび公開されている制度・マクロ指標に基づく観察研究であり、特定のファンド・投資家・企業・案件の内部情報には一切依拠していない。

    原論文の Declaration of Interest に記載のとおり、筆者は研究期間の一部において B Capital Group に所属していたが、本研究は Alpha Beyond Frontier の独立した学術的立場で行われたものであり、同社の見解・戦略・利益を反映しない。本研究は、B Capital Group、産業革新投資機構(JIC)、および分析対象となった企業・投資家のいずれとも関係を持たない。原稿の査読・資金提供・承認を行った第三者はなく、本研究は自己資金による。なお筆者は現在、JAPAN AI 株式会社および株式会社ジーニーに所属しているが、本研究および本稿は所属各社の公式見解を示すものではない。

    本稿で示した結果は 観察データに基づく相関関係であり、因果関係を確定するものではない。原論文自身、結論を「強い関連と、メカニズムと整合的なパターン」の水準に位置づけており、因果同定は今後の課題としている。また、2国比較という設計上、制度的条件は束としてのみ扱われ、個別の条件の寄与は識別されていない。

    本稿は投資助言・投資勧誘ではなく、特定の投資判断・投資戦略・政策を推奨または批判するものでもない。制度設計・政策議論・リサーチの前提として構造議論に寄与することを目的とし、具体的な意思決定は読者各位の独自判断によるべきものである。

    記載された見解はすべて運営者個人のものであり、いかなる組織の公式見解をも代表しない。

    References

    • Nakatsuka, Keisuke, “Same Capital, Different Absorption: Foreign Venture Capital and Startup Acquisition Channels in Japan and Singapore” (June 23, 2026). SSRN: https://ssrn.com/abstract=6980818
    • Nakatsuka, Keisuke, “Government as GP or LP? Public Limited Partner Capital Reallocates Deals within VC Firms — Evidence from Japan’s JIC” (May 2026). SSRN: https://ssrn.com/abstract=6703339

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  • AI企業の価値は、取得の仕方で失われる——AI時代のM&Aで問われる「横展開・保持・統合」の三条件

    AI企業の価値は、取得の仕方で失われる——AI時代のM&Aで問われる「横展開・保持・統合」の三条件

    AI企業の価値は、取得の仕方で失われる——AI時代のM&Aで問われる「横展開・保持・統合」の三条件

    はじめに:買収価格は、入口にすぎない

    AI企業には、高い買収プレミアムが付いている。生成AIへの期待を背景に、売上に対して従来のソフトウェア企業を大きく上回る倍率で評価される例も珍しくない。

    だが、注意したいことがある。買収価格が示すのは、あくまで「取得時点」の資産価値にすぎない。 買収したあとに、その価値が本当に手元に残り、活かせるかは、別の問題だ。とりわけAIでは、資産の価値が速く変わり、切り離しやすいため、取得時点の価値と取得後の価値が乖離しやすい。

    そのため、AI企業を評価するときは、売上や規模だけでなく、次の三つを見る必要がある。取得した資産を、①他の事業にも横展開できるか、②取得後も手元に残るか、③自社の仕組みに接続できるか。この三つが揃って初めて、支払った価格は「取得後の価値」に変わる。

    なお本稿では、法的な企業買収だけでなく、技術ライセンスの取得と中核人材の採用、大型出資など、企業の重要な資産を実質的に取り込む取引も、あわせて「取得」として扱う。AI時代には、会社を丸ごと買うより、こうした形で資産だけを取り込む例が増えているからだ。以下、実際のディールを追いながら、三つの問いを具体化していく。

    1. 高く買っても、買収した瞬間に価値が落ちることがある

    まず、直感に反する現象から始めたい。AI企業を高値で買収したのに、買収したという事実そのものが、買った資産の価値を削ってしまうことがある。

    象徴的なのが、データ関連のスタートアップ Scale AI をめぐる経緯だ。報道によれば、Meta は Scale AI に約143億ドルを出資して49%の持分を取得したが、これは議決権を伴わない少数持分であり、Scale AI 自体は別会社として存続している。創業者の Alexandr Wang らは Meta へ移り、新たなAI組織を率いることになった。ところがその後、同社の中立性を頼りにしていた顧客——Meta の競合を含む——が距離を置く動きが出た。OpenAI は取引の段階的な終了を認め、Google も関係を見直すと報じられ、Meta 内部でも一部が別のデータ供給元を使ったと伝えられている。

    これらの動きは、「特定の一社と強い資本関係を持った」という事実が、競合する顧客に中立性への懸念を生じさせ、資産の価値を損なう可能性を示している。顧客離脱のすべてがこの出資によるものか、価値が実際にどれだけ下がったかまでは、公開情報からは確定できない。だが、中立であることに価値がある資産は、中立性を疑われた瞬間から目減りし得る——この構造は見えてくる。

    これは、取得の設計を誤ると起きることだ。企業買収では、買う対象を間違えたからではなく、買ったあとの統合に失敗して価値を失う例が多い、という古くからの知見がある。AIのM&Aは、その教訓が、より鋭い形で当てはまる場面だと言える。高く買えば価値が手に入る、という単純な話ではない。

    2. AI時代のM&Aは、「会社を買う」とは限らない

    では、AI企業を買うとき、企業は実際に何を買っているのか。近年のディールを見ると、その形が変わってきている。

    これまでのM&Aは、事業や売上をまるごと取得するのが基本だった。ところがAIでは、会社全体ではなく、人材、モデルやデータ、そしてそれらを使うライセンスに対価が向かう形が目立つ。たとえば Microsoft は Inflection AI から中核チームを採用し、技術を使う非独占ライセンスを得た。報道によれば、支払いの大半は事業の買収ではなく、このライセンスと人材に向けられた。

    この形が極端に現れたのが、コーディング支援AIの Windsurf をめぐる経緯だ。報じられているところによれば、OpenAI による大型買収が破談になったあと、Google は同社の一部技術の非独占ライセンスを得て、経営トップや共同創業者、一部の研究開発人材を採用した。一方、製品・知的財産・ブランド・顧客基盤を含む事業そのものは、別の企業 Cognition が買収した(Cognition は、残った事業のARRが約8,200万ドル、企業顧客が350社以上だったと公表している)。つまり、中核人材と一部技術へのアクセス、そして残された製品・IP・顧客基盤が、異なる取引を通じて別々に値付けされたわけだ。一つの会社のなかにあった人材、技術、製品、顧客基盤が分解され、それぞれ異なる価値として取引されたのである。

    3. 「横展開できるか」と「買収後も残るか」は、別のことだ

    ここで、買収資産を測る二つの軸を区別しておきたい。

    一つは、その資産を他の顧客や製品へ横展開できるかだ。たとえば、ある顧客向けに蓄積した業務データや品質評価の仕組みを、別の顧客・製品・業界にも展開できれば、対価に見合う。これは、ある資源を別の用途へ再配置できるかという、経営学で以前から論じられてきた見方に近い。

    もう一つは、その資産が買収後も手元に残るかだ。人材は辞め、データは古くなり、顧客は離れていく。

    この二つは、実は必ずしも一致しない。人材流出や顧客離反は従来のM&Aにもあった問題だが、AIではその速度が際立って速い。傑出した研究者を手に入れても数年で去り、独自データも急速に陳腐化し、顧客は容易に乗り換える。実際、大手に取り込まれたAIチームから中核メンバーが相次いで離脱した例は、珍しくない。横展開できることと、手元に残ることは、別の問題なのだ。 売上や人材の「規模」は買収時点の価値を示すが、それが横展開でき、かつ残るかどうかは、価格表には表れない。

    4. 問うべき三つの質問

    以上を踏まえると、AI企業のM&Aで確認すべきことが、冒頭に挙げた三つに戻ってくる。

    第一に、その資産は他の事業へ横展開できるか。第二に、買収後も手元に残るか。第三に、その資産を自社の学習と展開の仕組みに接続できるか。三つ目の「接続」とは、たとえば取得した品質評価の基盤を自社モデルの改善に組み込み、顧客接点を既存の販売・導入網に載せ、そこで得た知見を次の顧客や製品でも使える状態にすることだ。買った資産を、企業の成長の仕組みそのものへ変換できるか、と言い換えてもいい。

    売上シナジーの試算だけでは、この三つには答えられない。どれか一つでも欠ければ——横展開できない資産を買う、残らない資産に払う、統合を誤って資産を減価させる——支払った対価は入口の価格を回収できない。問われているのは、買収前に見えていた価値を、買収後にも残すための「取得の設計」である。

    そして、この視点は企業買収だけに限られない。AI企業への出資、業務提携、外部AIの導入でも、相手がいま持つ機能だけでなく、その資産が自社のなかに残り、継続的に活用できる形になっているかを確認する必要がある。

    ただし、正直に線を引いておきたい。この見方が、すべてのAI買収に当てはまるわけではない。安定した継続収益と高い定着率を持つ業種特化型のAIや、基盤インフラをまるごと取り込む買収では、従来どおり「事業と売上を買う」ロジックがなお有効に働く。市場がAIにプレミアムを払うのも、すべてが幻というわけではない。本稿の視点がとりわけ効くのは、資産が揮発しやすく、統合の巧拙が価値を大きく左右する領域——人材やモデル、データを軸にした、フロンティアに近い買収である。

    おわりに:買収価格は入口、取得の設計が価値を決める

    AI企業のM&Aで、企業は表面的には会社や売上を買っている。だが実際に価値を左右するのは、その背後にあるデータ・評価基盤・人材・顧客接点を、買収後にも残し、横展開できる形で取得できるかどうかだ。AIでは資産の価値が速く変わり、切り離しやすい。だからこそ、優れた資産を高く買っても、取得の仕方しだいで、その価値は急速に失われ得る。

    買収価格は、入口にすぎない。問われているのは、買収前に見えていた価値を、買収後にも残せるかである。

    そして、この視点は、AIをめぐる資本の動き全体をどう読むか、という最後の問いにつながる。高い評価額、巨額の買収、加熱するM&A——それらは実需を映しているのか、それとも先取りされた期待なのか。稿を改めて、AIバブルがどこに現れるのかを考えたい。


    本稿は、公開情報にもとづく独立した分析であり、特定の組織の公式見解ではありません。特定企業の買収・出資・ライセンス取得等に関する記述は、公式発表・公開報道の範囲にとどめ、持分比率・金額の内訳や取引後の経緯には報道による情報が含まれます。取引の意図・動機、および資産価値への影響については、公表・報道された範囲を超えて断定していません。「横展開・保持・統合」という整理は、筆者が分析のために用いる枠組みであり、業界標準の定義ではありません。記載した数値は各出典の公表時点のものです。

    References

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  • 生成AIはモデル単体では差別化にならない——AI企業の本当の堀はどこにあるのか

    生成AIはモデル単体では差別化にならない——AI企業の本当の堀はどこにあるのか

    生成AIはモデル単体では差別化にならない

    はじめに:モデルが横並びになる世界で、価値はどこに残るのか

    新しいAIプロダクトを立ち上げるとき、最初に悩むのは「どのモデルを使うか」かもしれない。GPT系か、Claude系か、それともオープンモデルを自前で動かすか——。だが、この選択の重みは、ここ1〜2年で急速に小さくなっている。少なくとも、モデル単体の性能差だけで長く差別化することは難しくなってきた。

    実際、基盤モデルの性能差は急速に縮まり、推論のコストは大きく下がり、オープンウェイト(モデルの重みが公開され、自前で動かせる)のモデルも商用利用に耐える水準へ達してきた。Stanford HAI の AI Index 2025 や研究機関 Epoch AI の分析も、上位モデル間の性能差の縮小と、同じ仕事をさせるコストの継続的な低下を裏づけている。要するに、どのモデルを選ぶか自体が、もはや差別化になりにくくなっているのだ。

    だとすれば、問いはこう変わる。モデルそのものが横並びに近づく世界で、生成AI企業の価値はどこに残るのか。そして——本稿がより重視するのはこちらだが——その価値のうち、投資家や買い手は何に値段をつけるのか(資本市場は何を「価値」として認識するのか)

    先に見立てを述べておく。生成AI時代の企業価値は、モデルではなく、非公開データ・業務フロー・暗黙知・実装力に宿る。いずれも「業務に深く埋め込まれて、外に持ち出せないもの」である。そして資本がそれを価値として評価できるかどうかは、その埋め込みが「どれだけ深く、どれだけ再現困難か」にかかっている。

    1. モデルは「持ち出せる」、価値の源泉は「持ち出せない」

    モデルは、誰でも同じものを使える。APIを叩けば同じ出力が得られ、オープンモデルならダウンロードもできる。つまりモデルは原理的に「持ち出せる(portable)」資産であり、持ち出せるものはコピーされ、コモディティ化していく。著名アナリストの Benedict Evans も、基盤モデルは持続的な差別化を欠く「コモディティ的な入力」になりつつあり、価値は流通やワークフローへの統合、アプリケーション層へ移ると論じている。

    ここで一つ注意したい。これは「モデル層に価値が一切残らない」という意味ではない。a16z の Martin Casado らは2023年の時点で、生成AIのスタックそのものに自明な防御性はないとしつつ、スケール・流通・ブランドといった伝統的な堀で企業価値は築けると論じていた。論点は「モデルが無価値になる」ことではなく、「差別化の重心がモデルの外側へ移る」ことにある。

    では、その外側とは何か。本稿はそれを一つの概念で束ねたい——業務に埋め込まれて持ち出せない資産(embedded assets)である。非公開データ、業務フロー、暗黙知、実装力。これらは別々の要素に見えるが、共通点は「特定の顧客の業務のなかに深く埋め込まれていて、外から観察できず、移転に時間がかかる」という一点だ。モデルが portable なら、価値の源泉は embedded である。この対比が本稿の軸になる。

    図1: 持ち出せるモデル(portable)と、持ち出せない埋め込み資産(embedded)の対比。モデルはAPIやオープンモデルで誰でも同じものを入手でき、コピーすれば即座に再現され、単体では差別化になりにくい。一方で価値の源泉である非公開データ・業務フロー・暗黙知・実装力は、特定顧客の業務のなかにしか存在せず、外から見えず移転に時間がかかり、深く埋め込むほど堀になる。差がつくのは、モデルではなく業務への埋め込みである

    2. 埋め込み資産はどう積み上がるのか——データ・暗黙知・実装力

    埋め込み資産の中身を、もう少し具体的に見ていく。

    第一に、非公開データと暗黙知。ただし「独自データを持っていれば堀になる」という単純な話ではない。実際、公開された議論には両論がある。一方には「proprietary data こそが唯一持続する優位だ」という見方があり、他方には「基盤モデルは公開データで作られており、データ単独では複製もされ陳腐化もする」という反論がある。どちらも一理ある。重要なのは、データが業務フロー・評価基準・実装人材・顧客内での展開と結びついたときに、はじめて堀になるという点だ。生のデータそのものではなく、「誰がいつ何を正解と判断するか」という暗黙知を、業務の文脈のなかで構造化し、運用に乗せていく工程——そこに価値が宿る。この工程は外から見えず、時間がかかり、模倣が難しい。

    第二に、実装力。ここで近年あらためて注目されているのが、Forward Deployed Engineer(FDE、顧客の現場に深く入り込んで実装する技術者)という役割である。これはデータ解析企業 Palantir が確立・普及させた職種で、エンジニアが顧客の業務現場に深く入り込み、一社のために多くの機能を実装し、定着させる。Palantir 自身の説明でも、汎用プロダクトを多くの顧客へ届ける通常の開発者とは逆に、FDE は一顧客に張り付いて業務に食い込む役割だとされる。

    興味深いのは、生成AIの最前線がこのモデルに回帰していることだ。OpenAI は2026年5月、企業導入を専門に担う「Deployment Company」の設立を公表し(同社の発表によれば、数十億ドル規模の初期資本と、約150名の FDE・導入スペシャリストを擁するという)、Anthropic も Forward Deployed Engineer を公式に募集している。モデルがコモディティ化するほど、それを顧客の業務に「埋め込んで動かす」力が希少になる、という構図である。

    ここに一つの逆説がある。FDE的な実装は、一見すると「スケールしないサービス業」に見える。一社ごとに人を張り付けるのだから、ソフトウェアの高い限界利益とは相容れない。だが a16z が指摘するように、初期にマージンを犠牲にして業務へ深く埋め込むことが、結果として顧客が離れられない関係——強い堀——を生むことがある。スケールしないように見える作業こそが、最も模倣困難な資産になりうる。もっとも、これは現時点で実証された因果ではなく、サービス事業は低マージンでスケールしにくいという従来の反論も併存する、戦略的な仮説として扱うのが正確だろう。

    3. すべての Vertical AI が勝つわけではない

    埋め込み資産が価値を生むのなら、それを最も積み上げやすいのは、特定業界に特化した Vertical AI である。a16z、Bessemer、Menlo Ventures といった著名VCは近年、AI の価値が汎用モデルそのものではなく、特定業界のワークフロー・固有データ・規制要件への深い埋め込みへ移ると論じている。これは「Vertical SaaS は横断型より深い堀を持つ」という旧来の議論の、AI 時代への延長線上にある。

    ただし、ここで楽観に振れてはいけない。同じVCのなかからも、強い反対論が出ている。Foundation Capital や Theory Ventures は、基盤モデルの提供者が API の利用データから成功しているアプリを観測し、自らスタックを上がってアプリ層を飲み込んでくる「飲み込みリスク」を警告する。汎用的な知識労働をなぞるだけの薄いアプリは、モデル提供者の機能拡張に最も飲み込まれやすい。

    重要なのは、これらの論者が「Vertical AI は安全だ」とは言っていないことだ。彼らが描いているのは線引きである。すべての Vertical AI が勝つわけではない。勝ち筋があるのは、判断集約的で、顧客固有のデータが相互作用のなかで蓄積し、業務フローに深く埋め込まれる領域である。ここでいう判断集約的な業務とは、単に作業を自動化するだけでなく、例外処理、承認、責任分界、顧客ごとの判断基準が絡む業務である。逆に、定型的でルールベースの業務や、汎用的な知識をなぞるだけの領域では、固有の学習がほとんど蓄積されず、堀にならない。

    つまり Vertical AI の本質は、「業界を絞ること」自体ではない。「絞った業界のなかで、モデル提供者が再現できない埋め込み資産をどれだけ積めるか」にある。市場規模がどこまで広がるか、どの業界が最初に立ち上がるかは、上場実績の乏しい現時点では検証されていない仮説として扱うべきだが、構造としての勝ち筋の在りかは、かなりはっきりしている。

    4. 売上だけでは測れない——AI企業の価値をどう読むか

    ここからが本稿の芯である。埋め込み資産が価値の所在だとして、では資本市場はそれをどう評価するのか。

    従来のSaaSは、ARR(年間経常収益)とその成長率、そして顧客の定着を測る NRR(Net Revenue Retention=既存顧客から得る収益が前年比でどれだけ維持・拡大したか)を中心に評価されてきた。だが生成AI企業を同じ物差しで測ると、見誤る。

    整理すると、生成AI企業を見るときは、売上がどれだけ伸びているかだけでなく、その売上が剥がれにくいか(定着)、推論の原価を食いつぶさないか(粗利)、そして一社ごとの作り込みが再利用できる形になっているか(製品化)——この三つを合わせて見る必要がある。順に見ていこう。

    第一に、ARRの質、つまり売上が剥がれにくいかどうかが違う。Kyle Poyar の集計(2025年)によれば、ARR が25万ドルを超える企業で、従来型 B2B SaaS の NRR が中央値で80%台前半であるのに対し、AIネイティブ企業では、とくに低単価で実験的に使われている層の顧客の定着(リテンション)がそれを大きく下回る。逆に、単価が高く本格的な業務利用に根ざした層では、定着は従来SaaSに近い水準まで上がる。生成AIは導入が速い分、同じ「AIネイティブ」のなかでも、実験的な支出と本格的な業務利用が混在しやすいということだ。同じ「1億円のARR」でも、業務に深く埋め込まれた剥がれにくい収益なのか、試しに使われているだけの収益なのかで、中身がまるで違う。

    第二に、粗利の構造が違う。これはすでに業界で確立しつつある視点だが、生成AIアプリは推論コスト——LLM の API やコンピュート——が売上原価(COGS)に乗る。生成AI以前から、AI/ML企業は従来SaaSより粗利が低くなりやすいという論点は指摘されていた。a16z は2020年の時点で、AI企業の粗利をおおむね50〜60%程度、従来SaaSを60〜80%超と観察していた。本稿ではこれを「LLM原価後粗利」、すなわち推論原価を引いた後に残る粗利として捉えたい。ARR が同じでも、原価を引いた後に何が残るかは大きく異なる。ただし Bain Capital Ventures が「粗利だけを見るな」と論じるように、推論単価は時間とともに下がり粗利は改善しうるため、ある時点の粗利を過度に重視するのも誤りである。

    この二つを踏まえると、埋め込みの深さを読むための補助線がほしくなる。本稿では、既存の指標に連なる二つの視点を提案したい。

    一つは「顧客内展開率」。これは SaaS で確立した NRR や expansion rate——一顧客のなかで利用がどれだけ広がるか——に連なる考え方を、Enterprise AI 向けに読み替えたものだ。一社のなかで部署を超えて使われ、業務に食い込んでいくほど、その収益は剥がれにくく、埋め込みが深いことの証になる。

    もう一つは「テンプレート再利用率」。こちらは業界標準の指標ではなく、ABF が提案する作業仮説に近い。FDE的な実装は、当初こそ一社ごとの作り込みだが、その実装をどれだけ型(テンプレート)として再利用し、次の顧客へ展開できているか——サービスがプロダクトへ転化できているかを測る目安になる。再利用率が高ければ、低マージンの実装が、将来スケールする資産へ変わりつつあるサインと読める。

    これら三つは、どれも「埋め込み資産が、どれだけ製品化され、深まり、剥がれにくくなっているか」を別々の角度から照らす。資本が生成AI企業を評価するとは、突き詰めればこの埋め込みの深さと再現困難さを読むことにほかならない。

    図2: AI企業の価値を読む評価のレンズ。従来の中心であるARRは売上の大きさと成長を測るが、深さや剥がれにくさは映らない。①LLM原価後粗利は推論原価を引いた後に残る粗利、②顧客内展開率は一顧客のなかでの利用の広がり、③テンプレート再利用率は実装を型として再利用できた度合いを示し、それぞれ収益の質・業務への食い込み・サービスからプロダクトへのスケール性を映す。ARRの大きさより、埋め込みの深さを読む

    5. M&A——評価対象は技術から人材・データ・顧客基盤へ広がる

    埋め込み資産という視点は、M&Aの読み方も変える。

    2024年以降、Microsoft と Inflection、Amazon と Adept、Google と Character.AI のように、大手テックがスタートアップの中核チームを雇用しつつ、技術を非排他的にライセンスする——完全買収ではない「ライセンス+人材獲得」型のディールが、一つの類型として相次いで報じられた(いずれも報道ベース。なお Meta と Scale AI のように、少数出資と一部人材の移籍という、構造の異なる事例もある)。

    M&Aの実務側からも、価値の所在が動いていることがうかがえる。大手法律事務所 Skadden は2026年の解説で、AI企業の買収では価値の中核が「技術そのものよりも、鍵となる人材の確保」にある類型が現れていると指摘する。デューデリジェンスの重点も、モデルのベンチマーク上の性能以上に、学習データの権利と出所がどれだけ追跡可能か、中核ノウハウが少数の人材に集中していないか、そのモデルが実環境で性能を再現できるかへ移っているという。

    ただし、ここでも言い切りは避けたい。Databricks による MosaicML 買収のように、技術やプラットフォーム自体を主目的とする買収も実在する。実際には、技術と人材・実装力は分かちがたく結びついている。正確に言えばこうだ——AI企業のM&Aでは、技術そのものに加えて、データ、顧客基盤、業務知、そして実装済みのワークフローが評価対象になる。買い手が取りに来るのは、モデルそのものではなく、その企業が顧客の業務へ埋め込んできたものの総体である。

    6. 日本の Enterprise AI 企業は、海外の資本にどう見えるか

    最後に、この視点を日本に引きつけてみる。

    日本企業向けに深く入り込む Enterprise AI 企業が価値を作るとすれば、その源泉は日本市場の業務・規制・商習慣に特化したデータと顧客基盤になりやすい。これは前述の議論からすれば、まさに「埋め込み資産」である。だが、その価値は、誰が評価するかによって見え方が大きく変わる。ここに、見落とされがちな一つの逆転がある——同じ「ローカルな深さ」が、海外の投資家には割り引かれ、戦略的な買い手には価値として認識されるのだ。

    海外のVCにとって、日本市場に特化した深さは「読みにくい資産」に映りやすい。グローバルに横展開できるスケール性を重視する投資家から見れば、ローカルに最適化された深さは、市場の天井が低い「ローカルな堀」として割り引かれがちだ。言語と商習慣の壁もあって、その埋め込みがどれだけ深いのかを外から評価すること自体が難しい。

    ところが、同じ資産が、別の評価主体——たとえば事業会社や PE といった戦略的な買い手——には、むしろ高い価値として映ることがある。彼らにとっては、ある業界の業務に深く埋め込まれ、顧客が離れられない関係こそが、自前では作れない買収対象としての魅力になるからだ。同じ埋め込み資産でも、誰が値段をつけるかによって評価が反転する——これは日本の Enterprise AI 企業にとって、見過ごせない非対称である。

    ここに、日本の Enterprise AI 企業にとっての実務的な問いがある。自社の埋め込み資産を、グローバルなスケール性として語るのか、それとも特定領域での再現困難な深さとして語るのか。誰に価値を認識してもらうかによって、語り方も、組むべき資本の選び方も変わってくる。

    おわりに:競争は「最良のモデル」から「資本が認識できる埋め込み」へ

    生成AIの時代に、モデルそのものは差別化の中心ではなくなりつつある。価値は、業務に深く埋め込まれて持ち出せないもの——データ、業務フロー、暗黙知、実装力——へ移っていく。そして勝ち筋があるのは、判断集約的で、顧客固有のデータが蓄積し、業務に深く食い込む領域である。

    だが本稿が強調したいのは、その先だ。埋め込み資産は、ただ存在するだけでは価値にならない。資本市場がそれを価値として認識して、はじめて値段がつく。だからこそ、ARRの質、原価を引いた後の粗利、顧客内での展開、実装の再利用——埋め込みの深さと再現困難さを読むための物差しが要る。問いは「どの Vertical AI が勝つか」ではなく、「どの Vertical AI なら、資本市場で価値として認識されるのか」である。

    そしてこれは、評価する側にも跳ね返る。モデルでは測れない資産を読むには、投資家や買い手の側にも、業務への深い理解が要る——以前に本ブログで論じた「AIネイティブVC」の問いとも、ここでつながる。AIが価値の所在を「モデルの外側」へ動かすほど、それを正しく評価できる力そのものが、次の競争の焦点になる。

    References

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  • 経産省「スタートアップM&Aガイダンス」をどう読むか——「買い手能力」の公式化と、なお残る論点

    経産省「スタートアップM&Aガイダンス」をどう読むか——「買い手能力」の公式化と、なお残る論点

    経産省「スタートアップM&Aガイダンス」をどう読むか——「買い手能力」の公式化と、なお残る論点

    はじめに

    日本のスタートアップ・エコシステムは、IPO の偏重と、上場後の成長鈍化、そして大企業側の非連続成長探索ニーズの間で揺れている。グロース市場の上場後の伸び悩みが議論される一方で、事業会社は新規事業の内製では届かない領域に手を伸ばしたい——この2つの動きを接続する役割として、スタートアップM&A の重要性は静かに上がってきている。

    2026年5月20日、経済産業省が「スタートアップM&Aガイダンス——スタートアップ・エコシステムの成長・発展並びに新産業の創出に向けて」(全115ページ)を公表した。スタートアップ育成5か年計画(2022年11月)の実装ドキュメントの一つである。通読してみての印象は、それまで業界内の議論にとどまっていた一つの論点——日本のスタートアップM&A の課題は件数の少なさではなく、買い手側の組織能力の不足にある——を、政策ステートメントとして公式化したことに尽きる。

    本稿ではまず、ガイダンスが何を新しく言ったかを短く整理する。その上で、ガイダンスが扱わずに残した論点を、引き続き観察すべき場所として提示したい。

    §1. このガイダンスは何が新しいか

    ガイダンスの最大の貢献は、日本でスタートアップM&A の活用が進まない背景として4つの仮説を整理した上で、その4番目を中心論点として明示したことにある(p.9-10)。

    ① 上場基準が諸外国と比べて相対的に低い
    ② IPO と M&A をフラットに検討・比較ができていない
    ③ 経営の早期から、M&A も視野に入れた経営戦略が十分に行えていない
    買い手側において M&A の経験や体制整備が進んでいない

    ①は市場構造、②③はスタートアップ側の意識・戦略、④だけが買い手側の組織論である。実際、ガイダンス115ページのうち買い手向けが約30ページ、関連ケーススタディが約12ページを占め、紙幅の比重も④に最も傾いている。

    「M&A 件数が少ないのは買い手が下手だから」「日本企業は PMI が苦手」といった俗論は以前から存在した。だが、それを「経験や体制整備が進んでいない」という組織能力の不足として位置づけ直し、Corporate Development 部署の設置・Strategic Value(戦略的価値)の事前定義・既存事業とは異なる専用枠組みの構築を政策文書として推奨した——これがガイダンスの新しさである。同時に米国の Cisco・Google を Corporate Development の参照点として明示し、論点を比較可能なフレームに乗せた。

    ガイダンスは数字でも一つ重要な観察を提供している。日本のグロース市場に新規上場した会社のうち、時価総額が10倍以上に成長した会社は5%、時価総額の中央値は55億円である(東京証券取引所資料、p.12)。IPO さえできれば成長が続くわけではない、という事実を政策側が公式に認めた指標として記憶しておきたい。

    前回記事「なぜ日本には『赤字スタートアップを買い続ける会社』が育たないのか」で扱った「反復買収を組織能力として運用する買い手能力が薄い」という構造観察は、ガイダンス仮説④と方向が一致している。政策側と独立分析が、独立に同じ構造観察に到達した。

    §2. ガイダンスが示す打ち手

    買い手側に推奨される組織実装は6つの柱で整理されているが(p.65)、読者が覚えるべきキーワードは実は3つで足りる。

    Corporate Development。買収戦略を専任で担う独立組織。米国の Cisco・Google のように、新規ドメインの戦略策定からソーシング・PMI・バリュエーション・IR/リスク管理までを束ねる部署として運営する考え方である。既存の経営企画部の延長ではなく、専用の人材・予算・評価基準を持たせる点が肝になる。

    Strategic Value(戦略的価値)の事前定義。買収を通じて買い手が実現したい価値を、抽象的な「戦略的意義」ではなく、人材獲得・知財取得・プロダクト補完など具体的な類型として事前に定義しておく考え方である。これが曖昧なままだと、探索・評価・統合の各フェーズで案件ごとの場当たり対応に流れる、と弁護士コメントで指摘されている(p.66)。

    デュアルトラック経営。これは売り手(スタートアップ)側のキーワードで、経営の早期段階から IPO と M&A の双方を見据えて資本政策・ガバナンス・事業戦略・人材を一体で設計する考え方である。「IPO=成功 / M&A=ギブアップ」という社会的認知の修正が繰り返し強調される。

    実装の細部で印象に残るのは、スイングバイIPO に関する記述(p.88)である。ガイダンスはこの形態を「あらかじめ設計して進めるものではなく、まずは事業そのものを伸ばす中で、結果として選択肢として立ち上がってくるもの」と位置づけている。また契約実務側では、「日本のSO(ストックオプション)のうち5〜6割は M&A により行使ができない状態となるケースがある」(p.93)という VC のコメントが取り上げられている。知る人ぞ知る実務課題が政策文書に上がってきたことは、それだけで一つの変化である。

    巻末のケーススタディ4社は、いずれも「高バリュエーションを追いすぎず IPO と M&A の選択肢を保持する」「SO やガバナンスを M&A 前提で設計する」といった、デュアルトラック経営の実装例として位置づけられている。

    §3. 政策は触れる場所から先に触っている

    ここで一つ視点を変えてみたい。本稿で扱ってきた4軸モデル——LP・買い手・流動性・起業家——から本ガイダンスを眺めると、扱いの濃淡がはっきり見える。

    図1: 4軸 × ガイダンスの扱い——買い手軸(中心扱い・仮説④で公式論点化)/ 起業家軸(明示扱い・コラム p.16 + ケース4社)/ 流動性軸(軽く触れる程度)/ LP軸(直接扱わない、税制と関連ガイダンス群が周辺整備)。扱いの濃淡は「政策が動かしやすい順」とほぼ一致する

    この濃淡が「政策が動かしやすい順」と一致している点に注意したい。事業会社の組織設計に対する規範的ガイダンスを出すことは、政策側にとって相対的に動かしやすい。シリアルアントレプレナー推奨は税制との組合せで一定の後押しができる。一方、セカンダリー市場の制度整備や上流の LP 資本構造改革は、関係者が多く政策レバーが直接届きにくい。

    ガイダンスは射程を絞ることで実装可能性を担保している。政策は触れる場所から先に触っている——それ自体は合理的な設計だが、政策が触れない箇所が残ることは、別途独立に考える必要がある。

    §4. ガイダンスが扱わない論点

    ここからが、ガイダンスを読み終えた後に残る本丸である。政策が言っていないことの方が、構造的には重要な場合がある

    図2: ガイダンスが扱わない4論点——PE(プライベートエクイティ)の役割 / 海外戦略買い手と外為法 / のれん20年定額償却の見直し / 反復買収する日本企業の対象構造。いずれもガイダンスのスコープ外で、独立分析の場所として残る

    PE(プライベートエクイティ)の役割。ガイダンスの買い手スコープは事業会社・メガベンチャー中心で、Carlyle や KKR といった PE プレイヤーは扱われない。だが現実には、海外大型ファンドの日本コミット拡大や、国内 PE による上場 SaaS の非公開化買収など、PE 側で独自の動きが進んでいる。赤字成長期スタートアップを反復的に買い続ける買い手層が育つかどうかは、PE 側の評価フレームと LP 説明責任の組合せに大きく依存する。

    海外戦略買い手と外為法。GAFAM の日本での買収はごく限定的で、2020年改正外為法のコア業種制度がスタートアップ買収の典型領域に摩擦を加える構造も残る。海外大手が「出資には積極的だが、反復買収の対象には日本のスタートアップを取り込まない」という非対称性は、政策側からは触れにくい論点として残っている。

    のれん20年定額償却の見直し。会計処理の章(p.80-81)でガイダンスは、日本基準・IFRS・米国基準の取扱いの違いを事実紹介レベルで丁寧に整理する。しかし、2025年5月に規制改革会議で議論が始まったのれん償却制度の見直しには踏み込まない。経産省の所管領域から外れる(会計基準は ASBJ)ことが理由だが、買い手能力の組織実装と並行して、制度側のハードルがどう変わるかも買い手の意思決定環境を左右する重要変数である。

    反復買収する日本企業の対象構造。米国 Cisco・Google を Corporate Development の好例として参照する一方で、日本側で実際に反復買収を組織能力として運用している企業——ニデック、SHIFT、GENDA 等——は扱われない。これらの主たる買収対象は黒字事業や同業中堅であり、赤字成長期のスタートアップは含まれにくい。「日本にも反復買収する事業会社は存在するが、対象が違う」という事実は、Corporate Development を組織として導入しても、買収対象選定の慣性が変わるかどうかは別問題であることを示唆する。

    これら4論点を「ガイダンスへの不満」として読むのは正しくない。射程を絞ることで実装可能性を担保するのは政策文書の合理的設計である。ただし、これらが解決されないままでは、ガイダンスが推奨する Corporate Development や Strategic Value の定義が現場で立ち上がっても、スタートアップが IPO 以外でも成長資本を回収できる市場構造は作りにくい——という意味で、本丸は依然として残っている。

    おわりに

    ガイダンスを通読して最後に残るのは、一つの視点転換である。

    日本のスタートアップM&A のボトルネックは、「売りたい会社が少ない」ことではなく、「継続的に買える組織」が少ないことだった。IPO 偏重も、グロース市場上場後の成長鈍化も、PMI の困難も、のれん償却制度のハードルも、PE の不在も、海外戦略買い手の限定性も——別論点に見えて、実際には「赤字成長期スタートアップを継続的に評価・買収・統合できる主体が薄い」という一点に収束する。

    経産省ガイダンスは、その構造を初めて政策文書として公式化した。だが、政策が示せるのは方向までであり、実際に「反復買収を組織能力として持つ企業群」が日本で立ち上がるかどうかは、今後数年の経営実装に委ねられている。

    本当に変化が起きるかどうかは、M&A 件数ではなく、同じ企業が2件目、3件目、4件目を買い始めるかで測られることになる。

    References

    政策ガイダンス本体

    関連政策ドキュメント

    統計引用元(ガイダンス内で参照)

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    Disclaimer

    本稿は、経済産業省「スタートアップM&Aガイダンス」(2026年5月20日公表) の構造に関する独立した分析であり、公開情報ベースの個人研究として執筆されたものである。記載された企業・ファンド・政策当局の内部情報には一切依拠していない。

    本稿は特定の政策・制度・投資判断を推奨または批判するものではなく、公開された政策ガイダンスの構造を読者が理解する補助として位置づけられる。ガイダンス本体の解釈・適用に関する判断は、読者各位の独自判断によるべきものである。

    本稿は法務・税務・会計上の助言を目的とするものではない。M&A、買収契約、PMI、税制適用の設計にあたっては、個別事情に応じて弁護士、税理士、公認会計士その他専門家に確認されたい。

    記載された見解はすべて運営者個人のものであり、いかなる組織の公式見解をも代表しない。

  • なぜ日本には「赤字スタートアップを買い続ける会社」が育たないのか

    なぜ日本には「赤字スタートアップを買い続ける会社」が育たないのか

    なぜ日本には「赤字スタートアップを買い続ける会社」が育たないのか——事業会社・PE・海外戦略買い手の3層から読み解く買い手能力の課題

    はじめに

    スタートアップ・エコシステムの最後に残る問いは、「育った会社を、誰がどう買い取るか」である。日本では長く「IPOが大半、M&Aはわずか」という通説が共有されてきたが、2024年の数字はこの通説と少しずつ食い違いはじめている。むしろ問いは別のところに移ってきている——買われる件数は増えたのに、なぜ「買い続ける買い手」だけが育たないのか

    日本のスタートアップM&Aの比率は増えた。だが、赤字でも急成長するスタートアップを継続的に買い、自らの事業に組み込んでいく——反復買収を組織能力として運用する買い手の層は、米国型の到達点から距離がある。これは、買収を通じて初めて規模に届く会社のExit経路(投じた資本を回収する経路)が、依然として細いことを意味する。本稿はその構造を、買い手3層——事業会社・PE(プライベートエクイティ、未公開企業の買収・運営を行う投資ファンド)・海外戦略買い手——として分解する。

    §1. 比率で見れば、もはや薄くない

    通説の修正から入りたい。レコフ集計によれば、2024年の日本のM&A総件数は4,700件で過去最多を記録した。スタートアップに絞っても、INITIAL「Japan Startup Finance 2024」の集計で2024年の国内スタートアップ被買収件数は253件と、2010年代の平均(約90件)の約2.8倍に達している(集計手法によっては178件、+32.8%、STARTUP DB)。過去最高水準にあることでは複数のソースが一致する。

    さらに重要なのは比率の変化である。2024年のスタートアップExitは、件数ベースで M&A 84% : IPO 16% という構成になっている。米国のVC-backed Exit(ベンチャーキャピタル投資先のExit)が概ね「M&A 9割:IPO 1割」とされてきた構造に、件数比ではかなり接近している。総M&A件数に占めるスタートアップM&Aの比率も、日本では約5.4%(253件/4,700件)であり、米国でも同程度のオーダーで推定されている。

    図1: 日本のM&A総件数4,700件(2024)/ スタートアップ被買収253件(過去最多、2010年代平均の約2.8倍)/ M&A:IPO比率84:16——通説の「日本のスタートアップM&Aは少ない」は件数では既に米国型に接近

    「日本のスタートアップM&Aは少ない」「米国に比べてM&A比率が低い」という通説は、件数や比率の点で既にアップデートが必要になっている。それでは、何が「薄い」のか。

    §2. 買収には「深度」の差がある——3つのタイプ

    ここで本稿の足場となる視点を導入する。買収にはいくつかの「深度(depth)」がある。買い手がどこまで支配権を取り、事業を統合し、成長戦略に組み込むかの度合いには明確なグラデーションが存在する。便宜的に3つのタイプに分けて整理する。

    図2: 買収の「深度」——深度1(出資・提携型 / minority)→ 深度2(子会社化・独立維持型 / スイングバイIPO)→ 深度3(完全買収+事業統合型)。日本で増えているのは深度1・2が中心で、深度3を反復的に運用する買い手能力が3層いずれにも薄い
    • 深度1:出資・提携型(minority、少数株主としての参画)——少額出資、CVC(事業会社が運営するベンチャー投資部門)による戦略投資、戦略提携。買い手は少数株主に留まり、被買収企業の経営独立性は維持される。
    • 深度2:子会社化・独立維持型(majority-but-not-control、過半数取得+経営独立)——過半数の株式を取得して連結子会社化しつつ、経営チームと事業独立性は残す。日本の「スイングバイIPO」設計が代表例で、買収後に被買収企業自体が将来IPOすることまで織り込んだ構造である。
    • 深度3:完全買収+事業統合型(full control + integration)——100%取得した上で、買い手の事業ラインへ統合する。米国のCisco、Google、Salesforceのように、買収を組織的な「標準動作」として運用する形がここに当たる。

    3つは連続的なグラデーションを便宜的に区切ったものであり、現実の案件はその間に分布する。日本で増えているスタートアップM&Aの多くは深度1と深度2に属する。Sakana AIへの国内外VCの大型出資、メガバンク系CVCの世界トップクラスの投資件数、a16z東京オフィス開設(2026年夏予定)は深度1の活況を示す。KDDIによるソラコム(2017年子会社化、2024年3月東証グロース上場)やELYZA(2024年、53.4%取得)は深度2の代表例である。

    真の論点——「反復買収する買い手」の薄さ

    ここで率直に断っておきたい。本稿の論点は「日本の深度3が件数比で米国より少ない」ではない。日米のスタートアップ買収を深度別に切った正確な件数比のデータは公表ベースでは存在しないし、件数比だけを見れば日米はそれほど離れていない可能性すらある。

    問題はむしろ、買収の「単発の深さ」ではなく、買い手側の運用能力にある。米国の Cisco・Google・Microsoft・Apple・Salesforce は累計100〜260社規模の買収を継続的に運用しており、その対象には赤字成長期のスタートアップが多く含まれる。Bain の M&A 分析でも、買収を継続的に行う企業の TSR(株主総利回り)はそうでない企業を継続的に上回るとされ、これは「反復買収を組織能力として運用する」こと自体の経済合理性を示している。日本にも反復買収を行う企業は存在するが、その対象は黒字事業や同業界の中堅企業が中心であり、赤字でも急成長するスタートアップを継続的に買って自らの事業に組み込む層は、3層いずれにも薄い

    なぜこの「対象」と「反復性」の組合せが効くのか。具体的にイメージすると——

    • 大手の顧客基盤や学習データの規模がないと立ち上がりにくいAIプロダクト
    • 買い手の業務ソフトウェア群にバンドルされて初めて意味を持つ業務SaaS・セキュリティ製品
    • 買い手の販売チャネル・サポート網と一体化して初めて規模に届く B2B サービス

    ——こうした会社は、独立経営のまま放置されると逆に成長が頭打ちになりやすい。米国のCiscoやSalesforceの買収は、まさにこの「統合してこそ価値が出る」タイプの会社を、組織として継続的に処理してきた。

    スイングバイIPOは、それで完結する会社にとっては合理的な解である。問題はその外側——赤字成長期のスタートアップが、買い手の事業に統合されることで初めて伸びるタイプである場合に、それを受け止める「反復買収する買い手」の選択肢が日本で薄いことにある。Exitメニューの厚みと資本の再循環という観点でも、この選択肢が併存して初めて、創業者・初期株主への流動性提供と、それを次の起業や投資へ回す循環が成立しやすくなる。それでは、なぜ「赤字を反復買収する買い手」が日本では育ちにくいのか。

    §3. なぜ「反復買収する買い手」が育たないのか——3層の構造

    通説の多くは「海外戦略買い手こそ日本に来ない」と説明してきた。だが、その通説も部分的にしか正しくない。インバウンドM&Aは2024年に208件、前年比+24.6%と急増している。米国系PEの日本コミットも、KKRが今後10年で1兆円、Bain Capitalが5年で5兆円、EQT BPEA IXが156億ドル(2026年4月クローズ、アジア最大)と相次いで拡大している。海外資本は既に来ている。むしろ目を向けるべきは、買い手3層それぞれの内部構造——とりわけ赤字成長期スタートアップを反復的に買い続ける能力がなぜ立ち上がらないか——である。

    §3.1. 事業会社——反復買収を組織能力として運用しにくい

    事業会社は、赤字スタートアップの反復買収を組織能力として運用しにくい。これを構造的に重くしている要因は複数重なっている。

    ひとつは、組織記憶としての大型のれん減損である。第一三共・Ranbaxy(2008年度、3,513億円)、日本郵政・Toll Holdings(2016年度、4,003億円)、東芝・Westinghouse(2017年3月期、7,125億円)——合計約1.5兆円のクロスボーダー型大型のれん減損は、業界で日本企業の慎重姿勢を説明する文脈として頻繁に参照される。会計制度の構造も負荷となる。日本基準ではのれん(買収価格と被買収企業の純資産との差額)を20年以内に定額償却するため、IFRSやUS-GAAPの「非償却+減損テスト」モデルと異なり、赤字スタートアップを高い倍率で買収すれば毎期ののれん償却費がEPS(1株当たり利益)を圧迫しやすい(2025年5月に規制改革会議で見直し議論が始まった)。PMI(Post-Merger Integration、買収後統合)能力もKPMG調査で「想定シナジー実現」3〜4割、デロイト調査(2013年)で「成功」37%と、統合難度の高さが繰り返し指摘されてきた。

    注意すべきは、日本にも反復買収を行う事業会社が存在することである。ニデックは累計60社超を買収し減損ゼロを公表してきたし、SHIFT・GENDA・エムスリー・エス・エム・エス なども連続買収を IR で明示している。ただしその主たる対象は、製造業の同業中堅、エンタメ・ゲームセンターの既存店、医療・介護プラットフォーム上の黒字事業など、すでに利益が出ている事業群である。赤字成長期のスタートアップを継続的に買って自らの事業ラインへ組み込む型の反復買収は、これらの事例にもほとんど含まれない

    こうした負担が重なる中で、KDDIのソラコムやELYZAのような「過半数取得+経営独立+将来IPO」設計——いわゆるスイングバイIPO——が広がってきた。KDDI高橋誠社長はELYZA出資について「3桁いかない2桁億円の後半ぐらい」の規模感と公表しており、完全買収ではなく経営独立性を維持する設計が選択されている。これは未成熟ゆえの「中途半端な買収」ではなく、人材リテンション、のれん負担、組織統合コストといった複数の制約を踏まえた結果として読める、日本のスタートアップ市場が独自に発達させた合理的な適応形態である。ただし、その合理性を認めることと、赤字成長期スタートアップを継続的に買い続ける買い手能力が薄いことは、別の事実である。

    §3.2. PE——赤字スタートアップを反復的に買う「型」を持ちにくい

    PEは、赤字スタートアップを反復的に買う評価フレームと資金調達の型を持ちにくい。言い換えれば、PE は利益の出ている会社を借入も使って買うことには強いが、赤字でも急成長しているスタートアップを高い倍率で買い続けることには構造的に向きにくい。これは制度的禁止ではなく、評価フレームと資金構造に由来する慣行である。

    Bain APAC Private Equity Report 2025 によれば、日本のPE取引のエントリー倍率は EV/EBITDA(企業価値を、本業の現金創出力を表す利益指標 EBITDA で割った倍率)でメディアン12倍前後とされ、ただし GP の参入価格として10倍以下を確保するケースも多いという。バイアウト型ディール(買い手が支配権を取って改善し売却するタイプ)が取引額の60%超を占めるバイアウト主導の市場であり、LBO(買収対象企業のキャッシュフローを担保にした借入)を組成しやすい安定キャッシュフロー案件が中心となる。EBITDAがマイナスの企業を従来型LBOフレームで買うことは構造的に難しく、複数の業界解説も「赤字スタートアップはVCの領域、PEの対象外」と明示している。ファンド規模も大きな制約で、国内最大級の Carlyle Japan Partners V が4,300億円(約28億ドル相当)に対し、米国のソフトウェア専業PEは Thoma Bravo 約1,810億ドル、Vista Equity Partners 約1,070億ドル、Insight Partners 900億ドル超と桁が違う。

    ただし、「不可能ではない」ことを示す事例も出てきている。Carlyle は2022年にユーザベース(NewsPicksの赤字を内包する企業)を約555億円で、2025年にカオナビ(上場SaaS)を約500億円で非公開化買収している。特にカオナビではLBOローンを使わず全額エクイティで取引したと公表されており、従来型LBO評価フレームの外側で組成した例として注目される。加えて2025年11月にはアント・キャピタル・パートナーズの完全子会社として Ant Innovations(AIN) が設立され(同年12月に公表)、新興プレイヤーが既存PE/VCの隙間に出現しつつあること自体も、構造変化の指標として観察できる。とはいえ、これらは個別案件であり、赤字成長期スタートアップを継続的に買い続ける専業ファンドが日本に育っているわけではない。

    §3.3. 海外戦略買い手——日本のスタートアップが反復買収の対象に入らない

    海外戦略買い手は、日本に対しては出資には来るが、反復買収の対象としては日本のスタートアップを取り込んでいない

    GAFAMの日本買収を公表ベースで追うと、明確な大型ディールはGoogleによるPring買収(2021年7月、約180〜270百万ドルで87%取得)にほぼ限られ、各社の累計買収数(Google 264社、Microsoft 213社、Apple 123社、Cisco 215〜253社、Salesforce 70社超)の対象に、日本のスタートアップはほとんど含まれていない。一方で Sakana AI、Preferred Networks への出資参画、a16z 東京オフィス(2026年夏予定)など、少数株主としての参画事例は明らかに増加している。「出資」と「反復買収対象としての日本」のギャップこそが本質である。

    2020年5月施行の改正外為法(外国為替及び外国貿易法)は、上場企業の議決権取得の事前届出基準を10%から1%に引き下げ、半導体・ICT・サイバー等のコア業種を指定した。財務省資料では2024年度の事前届出件数は2018年度比でおよそ5倍、うちICT関連が56%を占める。買収を完全にブロックする制度ではないが、コア業種では事前届出免除がほぼ使えず、スタートアップ買収の典型領域に摩擦を加える構造である。完全買収後のPMIにおける言語・文化の負担も独立要因として残り、海外本社にとって深度1(出資)で止める方が合理的な選択となりやすい。

    §4. 兆し——「不可能ではない」が標準動作にもなっていない

    赤字成長期スタートアップの反復買収は、いくつかの形で動き始めている。事業会社の代表例はリクルートホールディングスで、Indeed(2012年、約10億ドル)と Glassdoor(2018年、約12億ドル)の取得を通じて HR Tech 領域のグローバル展開を進め、海外売上比率を約10年で3.6%から55.5%まで拡大した。JTのGallaher統合(2007年、買収価格1.73兆円・負債込み総取得コスト約2.25兆円)も、完全買収+事業統合型のクロスボーダーM&Aが日本企業にも不可能ではないことを示す事例として並ぶ。

    事業会社レベルでは、SHIFT(ソフトウェアテスト軸の連続M&A)、GENDA(エンタメ領域の連続買収を IR で明示)、エムスリー・エス・エム・エス(医療・介護プラットフォーム上での複数買収)など、反復買収を経営戦略の中核に据える企業も増えている。ただし、これらの主たる対象は黒字事業や同業界中堅であり、赤字成長期のソフトウェア・スタートアップを継続的に買って自社の事業ラインへ組み込む型は、現時点では依然として限定的である。

    PE側では、Carlyle がユーザベース(2022年、約555億円、NewsPicks の赤字を含む)とカオナビ(2025年、約500億円、LBO非使用・全額エクイティ)を非公開化買収し、従来型LBO評価フレームの外側で組成した例として注目される。海外PE(KKR・Bain Capital・EQT 等)の日本コミットも急速に拡大しているが、その主流は依然として大企業の carve-out(事業切り出し)であり、赤字成長期スタートアップへの裾野が広がるかは向こう数年の観察ポイントになる。新興PE側の AIN の登場、スイングバイIPO 側の KDDI の連続展開も、独自進化として並行する。業界団体レベルでも「PEファンドの役割が拡大している」という認識は共有されつつある。

    結論はシンプルである。日本でも反復買収は不可能ではない。ただし、赤字成長期スタートアップを対象にした反復買収は、まだ標準動作にはなっていない

    §5. 米国比較——買収を「反復運用」する組織能力

    米国の買い手能力が機能している背景は、個別の買収件数の多さそのものではなく、買収を反復的に運用する組織能力の蓄積にある。Cisco、Google、Microsoft、Apple、Salesforce などは Corporate Development 部門(M&A戦略の専任組織)を独立組織として運営し、買収案件を目的別カテゴリに分類して継続的に扱う。買収が「特別なイベント」ではなく「継続的な事業活動」として制度化されている、と表現するのが近い。Bain の M&A 分析でも、買収を継続的に行う企業の TSR(株主総利回り)はそうでない企業を継続的に上回るとされ、買収を標準動作として運用すること自体に経済合理性があるという統計的な裏付けが示されている。PE側でも、ソフトウェア専業の大型 PE(Thoma Bravo、Vista Equity Partners 等)が、赤字でも成長性と単位経済性で判断する評価基準を公表し、赤字スタートアップの反復買収を業として担う層が形成されている。

    ここで重要なのは、これらを「日本が目指すべき正解」「移植すべきモデル」として読まないことである。米国の買い手能力を支えているのは、ソフトウェア企業層の厚み、巨大ファンドサイズ、専任のM&A 専門組織、反復買収のTSR優位という市場合意——これらが連動した一つの均衡であり、日本市場の構造(市場規模・人材プール・会計制度・雇用慣行)の上に単純に移植することは難しい。米国比較が示すのは、「もし日本で赤字スタートアップを反復買収する買い手層を厚くするなら、どのような組織能力が並走して必要になるか」の参照点である。

    §6. 「買い手能力」はExit市場を厚くする一要素

    最後に、この議論を Exit 市場全体の文脈に置いておきたい。本稿は、本ブログで扱ってきた一連の記事——Exit構造、政府系VCの段階別効果、起業家・エンジェルによる選別、セカンダリー市場の立ち上がり——の延長線にある。それらの記事では、日本のスタートアップ・エコシステムを動かすために連動して動くべき補完軸として、資金供給(LP)・買い手・流動性・起業家の4軸を提示してきた。本稿はそのうちの「買い手軸」の中身を、買い手能力フレームとして開いたことになる。

    赤字成長期スタートアップを反復買収する買い手能力を厚くすることは、Exit市場全体を厚くする一要素である。この層が選択肢として機能しはじめれば、IPOに届かない領域、スイングバイIPOでも受けきれない領域の Exit が成立しやすくなる。だが、買い手軸単独では十分ではない。資金供給・起業家・流動性の各軸が同時に動いて初めて、エコシステム全体の厚みが増す。スイングバイIPO は、現時点の均衡における合理的な解の一つであり、買い手軸の現在の到達点でもある。

    補論——経済産業省「スタートアップM&Aガイダンス」が同時期に公表された

    2026年5月20日に経済産業省が「スタートアップM&Aガイダンス——スタートアップ・エコシステムの成長・発展並びに新産業の創出に向けて」を公表した。同ガイダンスは、日本でスタートアップM&A の活用が進まない背景の一つとして「買い手側においてM&Aの経験や体制整備が進んでいない」ことを公式に挙げ、買い手側に対して、スタートアップM&Aを「インオーガニックな成長戦略」として経営戦略に位置付けること、Corporate Development 部署の設置、戦略的価値(Strategic Value)の明確な定義、既存事業とは異なる専用の意思決定・予算・インセンティブ枠組みの構築を提言している。米国の Cisco・Google を Corporate Development の機能事例として参照する整理や、スイングバイIPO を「あらかじめ設計するものではなく結果的に選ばれるべきもの」として記述する節度は、本稿が示した「反復買収する組織能力」の構造観察や、スイングバイIPO を合理的適応として描くスタンスとも符合する。

    本稿の買い手能力フレームは独立した分析として書かれたものであり、ガイダンスから派生したものではない。だが、政策側でも同方向の問題意識が公式に表れ始めていることは、買い手能力の薄さが個人的見解ではなく独立した構造的論点として浮上してきていることを示唆している。

    おわりに

    日本のスタートアップM&Aは、件数や Exit に占める M&A 比率といったマクロ指標で見れば、もはや「薄い市場」とは言いにくい段階に来ている。しかし、買い手がどのような対象を、どのような頻度で、どのように扱うか——という “買い手能力” を切ってみると、別の風景が見える。

    事業会社はのれん償却制度と組織記憶の重なりの中で、スイングバイIPOという独自の合理的設計を発達させてきた。これは「未成熟」の表現ではなく、与えられた制約下での最適化と読むべきものである。日本にも反復買収を組織能力として運用する企業(ニデック・SHIFT・GENDA・エムスリー・リクルートHD 等)は確かに存在する。一方で、赤字成長期のスタートアップを継続的に買って自社の事業ラインへ組み込む型の買い手能力は、3層のいずれにも依然として薄い。

    赤字スタートアップの反復買収を唯一の正解にする必要はない。スイングバイIPOや部分取得型のExitが合理的に機能している領域は、そのまま育てばよい。問題はその外側にある——買い手の事業に統合されて初めて価値が立つ赤字成長期スタートアップ、その Exit 経路が細いまま残されている事実である。こうしたスタートアップを継続的に受け止められる買い手層と、それを支える組織能力をいかに厚くするかこそが、買い手軸に残された具体的な課題であり、Exit メニューの厚みと資本の再循環を支える条件でもある。

    References

    政策ガイダンス

    日本のM&Aマクロ統計

    日本のスタートアップM&A・Exit構造

    のれん減損・会計制度

    PMI・M&A成功率

    スイングバイIPO・事業会社事例

    日本のPE

    海外戦略買い手・外為法

    米国 Serial Acquirer / Growth Equity

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    Disclaimer

    本稿は、日本のスタートアップM&A市場の構造に関する独立した分析であり、公開情報ベースの個人研究として執筆されたものである。記載された企業・ファンドの内部情報には一切依拠していない。

    本稿は投資助言・投資勧誘ではなく、特定の投資判断・投資戦略を推奨するものではない。制度設計・政策議論・リサーチの前提として構造議論に寄与することを目的とし、具体的な投資実務における意思決定は、読者各位の独自判断によるべきものである。

    本稿で扱った数値・事例は公表情報に基づくが、データソース間で集計範囲・定義に差がある場合がある。本稿はそうした差異の存在を前提とした上で構造的観察を提示するものであり、特定の数値を断定的に主張するものではない。

    また、本稿は法務・税務・会計上の助言を目的とするものではない。M&A、買収契約、PMIの設計にあたっては、個別事情に応じて弁護士、税理士、公認会計士その他専門家に確認されたい。

    記載された見解はすべて運営者個人のものであり、いかなる組織の公式見解をも代表しない。

  • なぜ日本はExitが弱いのか——3つのExitの共通構造を読み解く

    なぜ日本はExitが弱いのか——3つのExitの共通構造を読み解く

    なぜ日本はExitが弱いのか——3つのExitの共通構造を読み解く

    はじめに——日本のExitは「数」ではなく「規模」で小さい

    日本のスタートアップExitは、M&A件数を中心に一定の動きがある一方、IPOは件数自体が減少傾向にある。共通するのは、1件あたりの規模が海外と桁違いに小さいことだ。たとえば東証グロース市場のIPO時価総額の中央値は、2024年で58億円、2025年でも102億円にとどまる(EY Japan)。M&Aやセカンダリー取引でも、同じような規模の差が見える。

    先行記事海外VCから見た日本のスタートアップ市場では、この現象を “small exit trap”——IPO偏重・M&A未発達・セカンダリー未成熟が重なった状態——として整理した。本稿ではその構造の分解を試みる。

    「米国より小さい」だけでは、日本の特異性は説明できない。米国はIPO・大型M&A・セカンダリー・機関投資家LPの4層がいずれも厚い世界的な例外であり、欧州やアジアの多くは米国ほど深くはない。つまりアメリカ以外での一般的な状況というものは存在する。だが日本はそこにも当てはまらない。他の国々はどこかに別のExit手段(M&Aやセカンダリーなどの代替経路)を持っているのに対し、日本だけが代替的なExitを欠いたまま、複数の制約が同時に重なっている。

    ひとことで言えば、米国は規模で例外、日本は制約の重なり方で例外である。詳しい比較は後半で扱う。まずはIPO・M&A・セカンダリーの3つのExitについて、何が問題で、なぜそうなっているのかを順に見ていきたい。


    1. IPO——「早く小さく上場する」が合理になる構造

    何が問題か

    東証グロース市場のIPO時価総額の中央値は、2024年58億円、2025年102億円にとどまる。Astroscale 1,448億円、Soracom 676億円、VRAIN SOLUTION 525億円のような大型上場は存在するものの、裾野は薄い。50億円未満が約3割、30億円未満が約2割で、分布が明らかに左に寄っている。米国の数十億〜数百億ドル級のIPOとは桁が違う。

    なぜそうなっているのか

    理由は「上場後にお金を集めにくい」ことにある。日本のIPO後の市場では、セカンダリーオファリングやフォローオン調達の厚みが限定的だ。機関投資家の新興株式への配分が、自主規制や運用ガイドラインで実質的に制限されている。結果として、上場は成長資金を集める「最終手段」となり、創業者やVCにとっては早く・小さく上場することが合理的な選択になる。

    加えて、東証グロース市場の上場維持基準見直しにより、「上場5年経過後に時価総額100億円以上」が制度化された(既上場会社への本格適用は2030年以降、2025年末以後の新規上場申請会社は想定時価総額100億円未満なら成長戦略の追加説明が求められる)。Business Insider報道では2025年3月末時点でグロース上場企業の約68%が100億円未満とされ、規模の天井が制度として明示された形だ。

    残念ながら、IPOが企業の成熟を示すマイルストーンではなく、創業者やVCが資金を回収するための一場面として機能してしまっている。


    2. M&A——4つのレイヤーが同時に縛っている

    何が問題か

    日本のスタートアップ関連M&Aの件数は、MARR等のデータによれば長期的に増加傾向にある(2015年103件→2023年187件など)。2024〜25年も一定の水準を維持しているが、課題は件数ではなく比率と単価にある。日本はExitに占めるIPOの比率が高く、M&A経由の出口が相対的に薄い構造になっている(KPMG調査では、日本のVC ExitはIPOが大きく上回るのに対し、米国はM&Aが中心とされる)。買収単価でも、日本は小型案件が中心で、米国とは規模面で大きな差があるとされる。

    なぜそうなっているのか

    M&Aの小ささは1つの要因では説明できない。制度→規制→市場→実務の4つのレイヤーが重なって、買収規模と件数の両方を抑え込んでいる。

    (1) のれん会計(制度レイヤー) J-GAAPでは、のれんは原則20年以内で定期償却される(IFRSや米国基準は非償却+減損テスト)。たとえば串カツ田中HDがピソラを88億円で買収したケースでは、のれん約87億円が発生し、15年均等償却で計上される(同社開示)。J-GAAP特有の定期償却は買収後の利益指標に長期にわたって影響し続ける構造で、買収対価が大きいほどPLへの圧迫が継続する。

    ただし、これだけでM&Aが動かない理由を説明しきれない。ASBJで2025〜26年に非償却化が議論されているが、IFRS採用企業(MUFG、NECなど)の買収件数だけでJ-GAAP企業との明確な差を断定するのは難しい。会計の見直しだけでM&Aが動くわけではないと考えられる。

    (2) 独禁の予見性(規制レイヤー) 公正取引委員会の企業結合審査は、2019年のデジタル分野ガイドライン以降、対価400億円超で一定の条件を満たす案件について、事前相談が推奨されている。一方で、10〜400億円帯——日本のスタートアップ買収のほとんどが収まる帯域——は一般審査に戻る。この帯域での予見性が不十分なことは、大型買収を控える理由になる。制度はあるが、スタートアップM&Aの主戦場には届いていない。

    (3) 買い手の供給(市場レイヤー) JICの2024年上半期の観察によれば、日本のM&A件数は前年同期比+43件の125件に増えたが、その多くは上場新興企業による買収だった。米欧のような大型上場テック企業や、PEバックの consolidator(買収を続ける企業群)が継続的に買う構図にはなっておらず、買い手層が薄い。この薄さは後述するLP構造にもつながるが、市場レイヤーだけ見てもM&A単価を抑えている。

    (4) PMI・バリュエーション合意(実務レイヤー) 制度・規制・市場の制約が重なる先で、最後にディールの成否を分けるのが実務レイヤーだ。買収を見送った大企業への経産省アンケート(2020年度報告書)では、①バリュエーション合意困難、②PMIにおける文化問題が上位を占めている。将来成長率の評価が日米で乖離し、財務情報の粒度差や、米国の409A評価のような公正価値評価インフラの不在が、バリュエーション合意を難しくしている。雇用継続慣行とスタートアップ文化の軋轢も、PMIのコストを押し上げる。

    ただしこの実務レイヤーは、独立した主因とは見ない方が筋が通る。上流の制約が下流で結果として現れたものと捉えたほうが自然だからだ。バリュエーション合意の難しさは買い手供給の薄さに、価格評価インフラの不在はセカンダリー市場の未熟さに、それぞれ連結している。個別ディールでは実務摩擦が前面に出るが、その頻度と深さを決めているのは上流の構造だ。

    つまり4層の重ね縛りである以上、たとえば「のれんを非償却化する」だけでは他の3層が残り、波及は限定的にしかならない。これが、後述する「単一レバーだけでは動きにくい」議論の前提になる。


    3. セカンダリー——3つの層がいずれも薄い

    何が問題か

    日本のスタートアップ向けセカンダリー市場は、ようやく初期的に立ち上がり始めたところだ。GP secondary(既存ファンド持分の取引)、LP direct secondary(LPが直接持分を売却する取引)、従業員liquidity(社員の株式換金)の3層を扱う専業プレイヤーは、Kepple Capital(AUM 100億円規模)、Nstockに加え、2025年にはAnt Innovationsも設立されるなど、ごく初期的に出始めた段階にある。

    一方、米国ではForge Globalが2024年通年で13億ドルのtrading volume(前年比+73%)、Nasdaq Private Marketは2024年上半期だけで42億ドルの構造化セカンダリーを取り扱うなど、個別プラットフォーム単位でも規模が違う。さらにLazardが示すグローバル・セカンダリー市場全体(PE/LPセカンダリー含む広義)は2024年で約1,520億ドルに達しており、日本との比較ではプラットフォーム単位・市場全体ともに桁違いの差がある。

    なぜそうなっているのか

    理由は3層すべてに制約がかかっていることだ。契約慣行(ROFR=先買権、譲渡制限、会社承認条項)が売却の自由度を縛り、米国の409A評価や mark-to-market のような価格発見メカニズムが欠けていて、専門投資家やプラットフォームの層もまだ薄い。2024年のストックオプション税制改正で従業員liquidityの一部は緩和されたが、譲渡益課税の複雑さと執行インフラの不在で、実装は進んでいない。

    結果として、GPファンドの回転率は下がり、LPがリターンを回収するタイミングは遅れる。これが次章で見るLP構造へのフィードバックにもなっている。


    4. なぜ全部が弱いのか——LP構造という上流アンカー

    ここまでで、IPO・M&A・セカンダリーの3つのExitがそれぞれの理由で小さいことを見てきた。だが本当の問題は、これらが独立した話ではない点にある。

    図1: LP構造アンカー → 4要因ロック → 規模の天井(階層構造)

    4-1. 上流アンカー——日本のLPは米国と違う

    日本のVCのLP構成は、米国と本質的に異なる。内閣府CSTIの2021年比較では、日本は銀行38%、事業会社38%が中心で、両者で計76%を占める。一方、米国は財団23%、企業年金19%、大学エンダウメント10%、公的年金13%と、大学・財団・年金が中心で計65%を占める。

    この違いはただの「出資者の顔ぶれ」の問題ではない。ファンドの経済構造そのものを決めている。事業法人や金融機関のLPには、(i) 1ファンドあたりの出資上限が小さい、(ii) 戦略目的が主で純粋なリターン追求ではない、(iii) 長期ロックアップを嫌う、という3つの傾向がある。結果として日本のVCは「小口LPを多数積み上げる」型にならざるを得ず、1人のLPから1億ドル以上のコミットを引いてくる米国型の大型ファンドが、構造的に組成できない

    数字でも確認できる。日本VCの62%は1億ドル未満、43%は5千万ドル未満(Chambers 2025)。ファンドサイズの中央値は2015〜2025年を通じて30億円で横ばいだ。米国VCの主流は5千万〜5億ドル以上、上位は10億ドル以上。この、LP構成が決めているファンドサイズの天井こそが「上流アンカー」と呼びたい部分である。LP構成が変わらない限り、下流でどんな改革をしても、天井は本質的には動かない。

    4-2. 下流の4要因ロック

    LP構造アンカーが決めるファンドサイズの天井は、下流の3ルートで4要因のロックとして現れる。

    要因内容強さ
    (1) IPO制度厳格化2025年東証新基準が天井を制度化(5年で100億円)
    (2) のれん会計20年J-GAAPの定期償却が買収PLを圧迫(串カツ田中HDの例)寄与
    (3) 買い手供給限定バリュ合意困難82%、PMI文化、CVC買い手の薄さ
    (4) セカンダリー不在3層(GP/LP/employee)すべて欠落、米約1,500億ドル vs 日ほぼゼロ

    重要なのは、これら4要因が独立ではなく、LP構造という同じ上流の影響下で同時に働いていることである。1つを外しても他の3つが残るので、単一のレバーで突破するのは難しい。

    4-3. 弱いフィードバック——下流から上流への戻り経路

    階層構造は完全な一方通行というわけではなく、1本だけ下流から上流に戻る弱いフィードバック経路がある。小型のExitしか出なければDPIは伸びにくく、LPは過去のDPI実績を参照して次ファンドへの追加コミットを抑える。その結果、ファンドサイズはさらに小さくなり、次世代のExitも小型化していく。

    ただしLP構成そのもの(事業法人・金融機関中心の配分)は、1980年代以降の日本資本市場の文化に根ざしている。下流からの弱いフィードバック程度では、その基盤までは動かない。そのためこの構造は「相互強化ループ」ではなく「上流アンカー + 下流カスケード + 弱いフィードバック」と表現するのがふさわしい。あくまで上流→下流が主、下流→上流が従である。

    4-4. 日本の特異性——他の国はどこかに「別のExit手段」を持っている

    冒頭でも触れたが、米国はIPO・大型M&A・セカンダリー・機関投資家LPの4層がすべて厚い世界的な例外だ。Nasdaq Private Marketは2024年上半期だけで42億ドルの構造化セカンダリーを扱い、同年のプライベート・テンダー総額はVC-backed IPO額を超えた。機関LPもYale エンダウメント 414億ドル(FY2024)、NASRA加盟の公的年金合計 5.13兆ドル(FY2024末)と、規模が違う。

    非米国に目を移すと、状況は変わる。欧州年金のVC配分はAUMの0.01%(英・アイルランドは0.007%)、欧州VC-backed M&A exits の9割以上が1億ドル未満で、small exit は非米国では普遍的に観察される現象だ。ここまでは日本に似ている。

    しかし欧州・インド・イスラエルには、日本にはない別のExit手段がある。

    • 欧州: EMEAでは venture-backed exits の 85%以上がM&A——上場市場が弱くても、米国企業への統合が代替的なExitになっている。さらに英Mansion House Accord(2030年までにDC年金の10%を private market へ、うち5%を英国へ)や、仏Tibi II(120の認定ファンドが累計 300億ユーロ 調達、約 130億ユーロ を startup/scale-up に投下)といったLP動員型の改革がすでに動き出している。
    • インド: 2024年のVC/growth exits は68億ドル、うち public market exits の比率が55%から76%へ上昇している。IPO exit value は約7倍の15億ドル、セカンダリーも10億ドル → 15.5億ドル。国内の公開市場とセカンダリーが、補完的な役割を担い始めている(Bain/IVCA 2025)。
    • イスラエル: 2024年のExit総額133.8億ドル、うちM&Aが126億ドル(価額の94%、件数の89%)、5億ドル超の大型M&A案件も8件成立している(PwC Israel)。国内の機関LPは”still minimal”で日本に近いが、グローバル資本とUS企業への統合を通じて、M&A単独でExitを補える構造を持っている。

    日本には、これらに相当する別のExit手段がない。そのため、どれか一つのレバーを動かしても、すぐに別の制約にぶつかってしまう。IPO制度は厳しく(5年で100億円)、のれんは償却必須、買い手層はJICの観察通り上場新興中心で薄く、セカンダリーは事実上ゼロ、国内機関LPもGPIFのオルタナ上限5%・PE残高 8,657億円(2025年3月末時点)にとどまる。

    要因日本英国フランスインドイスラエル
    IPO制度厳格化🔲
    のれん会計20年
    買い手供給限定🔲
    セカンダリー不在🔲🔲
    機関投資家LP薄🔲🔲🔲
    別のExit手段なし年金改革年金改革・US買い手国内公開市場US M&A統合

    ⬛=ロックあり /🔲=部分 / ⬜=ロックなし

    日本の特異性は「要因の中身が日本独自である」ところにあるのではない。「4要因が同時にロックされ、しかも代わりとなるExitを欠いている」その完全さにある。英・仏・印・イスラエルでは単一の目立つレバー(年金改革、公開市場、クロスボーダーM&A、US統合)が効いて見えるが、それは他のレバーが事前に最低水準で揃っていたからこそ、その一手が機能している構図である。日本ではこの下地そのものが薄いため、単独の改革では効果が限定的になりやすい。だからこそ、向かう先はLP構造を起点に複数レバーを同時に動かす coordinated reformとなる。

    4-5. 「規模の天井」を再定義する

    ここまで見てきたとおり、日本のExit問題は「Exitがない」ことではない。3つのExitは存在している。問題は、各Exitの受け手側がどれだけの資本を吸収できるかの天井であり、その天井を決めているのがLP構造という上流アンカーだ。資本市場の厚み・多様性・流動性は、LP層の厚み・多様性によって決まる。VC市場の上流を動かさずに下流のExitだけ改革しても、天井そのものは動かない。ここに本稿の中心的な結論がある。


    5. どう変えるべきか——「単一レバー」ではなく「束で動かす」

    5-1. 単一レバーだけでは動きにくい理由

    ここから見えてくるのは、他国の改革も単一レバーだけで成立していたわけではないということだ。下地——他のレバーが最低水準で揃っていること——がある上に、目立つ一手が乗っかって機能している構図である。日本ではこの下地が薄いため、個別レバーだけを動かしても、直後に次の制約に当たってしまう

    たとえばIPO要件を緩和しても、ファンドサイズの天井が低いままでは成長資金の供給が追いつかず、結局小型上場に戻る。LP軸単独で機関LPを拡大しても、IPO・M&A・セカンダリーの出口が整わなければ、ファンドの資金は滞留してしまう。

    したがって日本では、まず下地を最低水準まで引き上げる多軸の同時の動きが先に必要になる。政策設計の問いは「どのレバーを選ぶか」ではなく、「どの最小セットを同時に動かすか」から始まる。これは個別政策の優先順位の話ではなく、構造に対する設計の話だ。

    5-2. 最小同時改革セット——LP・買い手・流動性の3軸

    具体的に動かすべき最小セットは、以下の3軸だ。

    • ① LP軸(資本の供給源): 年金やエンダウメントのVC配分の拡大、政府系LPの exit gate 設計の改善
    • ② 買い手軸(M&A市場の構造): CVCの活性化、のれん非償却化、独禁の予見性帯の整備、PMI人材の蓄積
    • ③ 流動性軸(セカンダリー市場): GP/LP/従業員の3層整備、価格発見インフラの構築、ESO税制の明確化

    3軸は独立ではなく、相互に強化し合う関係にある。LP軸が動けばファンドサイズの天井が上がり、買い手層の大型化やセカンダリー需要の深化を引き起こす。逆に流動性軸が動けばGP回転率が改善し、LPリターンが向上し、それがLP軸への再投資を呼ぶ、という循環が起動する。3軸を同時に動かしてはじめて、別のExit手段が形成され、個別改革では得られない波及効果が出てくる。これが「束で動かす」の意味だ。

    5-3. LP軸を起点にする理由——ただし単独では足りない

    3軸のうちどこから手をつけるかというと、LP軸が起点になる。理由は2つある。

    第一に、LP構造は4-1で見たとおり、天井そのものを決めている外側のアンカーであり、ここを動かさずに下流を改革しても、土台の資本吸収能力は増えない。第二に、LP軸の動きは他2軸への波及スピードがいちばん速い。ファンドサイズが拡大すれば、レイター資金供給・M&Aの買い手能力・セカンダリー需要が連動して動く。

    ただしLP軸だけでは足りない。機関LPが拡大してファンドサイズが上がっても、J-GAAPのれんが残れば買収PLの圧迫は続くし、セカンダリーが不在ならGP回転率は改善せず、LPリターンの循環は完成しない。LP軸は起点であって、完結点ではない。優先順位はあるが、3軸を同時に実装することが前提になる。

    5-4. 「束で動かした」海外の事例

    すでに複数のレバーを同時に動かしている国の事例は、束として設計するアプローチを支持する。重要なのは、これらが「単体政策の効用比較の結果として勝ち残った」のではなく、最初から束として設計されていたということだ。

    • イスラエル / Yozma(1993〜): 政府が1億ドルを投入し、10本のVCファンドへ出資、政府は40%持分を保有して民間パートナーが5年後にbuyoutできる設計で民営化を促した(OECD)。LP軸(政府LP)+ 買い手軸(M&A志向VCの輩出)+ exit gate設計を同時に実装した束として知られ、その後のイスラエルVC市場の厚みの形成に大きく寄与したと評価されている。
    • 英国 / Mansion House Accord(2025〜): 17のDC年金プロバイダーが(対象資産2,520億ポンド)、2030年までにデフォルトファンドの10%を private market へ(うち5%を英国へ)投資する意向を表明している。単なる年金改革ではなく、Growth Market改革・上場要件の柔軟化・DC年金制度の見直しの複合パッケージとして展開されている。
    • フランス / Tibi II(2022〜): LPの累計配分目標 150億ユーロ以上、120の認定ファンドが累計 300億ユーロ を調達し、約 130億ユーロ を startup/scale-up に投下している(2025年9月時点、仏トレゾール総局)。French Tech Visa・AI戦略と連動した、移民政策 + 資本政策 + 公共投資の束として設計されている。

    日本にも、対応する政策素材はすでにある。JICの政府系LP機能、GPIFや企業年金のオルタナ配分ガイドライン見直し、ASBJののれん会計議論、FSA・METIのスタートアップ株式流動化議論などだ。問題は素材の有無ではない。これらを別々のタイムラインで個別に動かすか、それとも束として同時に実装する政策ポートフォリオとして設計するか。後者こそが、本稿の示唆する coordinated reform の具体像である。

    そしてLP軸では、すでに動きが始まっている。スタートアップ育成5か年計画(2022〜2027年、10兆円規模)の進行、JICによる継続的なLP出資(直近では2025年10月に Kepple Liquidity 2号へ30億円コミットを決定)、GPIFのオルタナ枠(上限5%)の活用余地など、起点が積極化する方向は確実に進んでいる。起点が動き出していること自体が、束としての改革を起動する触媒になり得る


    おわりに——構造が見えると、議論が変わる

    この階層構造が見えてくると、日本のExit議論の前提が3つの点で書き換わる。

    第一に、診断を変える。「Exitが足りない」「IPOを増やせ」「M&Aが未発達だ」というこれまでの議論は、いずれも下流の症状を並べた診断にとどまる。日本のExit問題は、Exitが不足していることではなく、各Exitの受け手側の資本吸収能力の天井である。その天井を決めているのは、LP構造という上流アンカーだ。症状ではなく構造を見なければ、問題の所在は特定できない。

    第二に、単一レバーだけでは効きにくいと認識する。のれん非償却化、IPO要件の柔軟化、独禁予見性の改善、どれも単独では天井を動かしにくい。4要因がLP構造アンカーの下で同時にロックされているので、1要因を外しても他の3要因が残り、波及は限定的にとどまる。「どのレバーを優先すべきか」だけを問うと、構造が見えにくくなる。

    第三に、問いを変える。問うべきは「どのレバーが最も効くか」ではなく、「どの最小セットを同時に動かすか」だ。LP軸が起点になるが単独では足りず、買い手軸と流動性軸を同時に動かしてはじめて、別のExit手段が形成される。英・仏・印・イスラエルが実証した政策設計の論理である。

    日本のスタートアップExitは、件数ではなく規模で海外と桁違いに小さい。背後にあるのはLP構造という上流アンカーで、これがIPO制度の厳格化・のれん会計20年・買い手供給の限定・セカンダリー不在という4要因のロックとして現れている。4要因が同時にロックされている以上、単一レバーだけでは天井は動きにくい。3軸(LP・買い手・流動性)を束として動かす coordinated reform が、これを押し上げる本筋になる。

    問われているのは「どのレバーを選ぶか」ではない。「どの最小セットを同時に動かすか」だ。Exit改革の本質は、選ぶことではなく、設計することにある。

    そして起点となるLP軸では、すでに動きが始まっている。これが買い手軸・流動性軸の改革と束として接続すれば、M&Aやセカンダリーを含めた市場全体に大きな機会が生まれる可能性がある。日本のExit構造は、難しいが、動かないわけではない。

    References and Further Reading

    出典は本稿で参照した順ではなく、構造モデルのレイヤー別に整理する。各セクション冒頭に、本稿におけるそのレイヤーの役割を示す。

    IPO / 資本市場

    本稿における役割: Chapter 1 の「IPO小型化」と「IPOの金融イベント化」の定量根拠——東証グロース市場時価総額中央値、分布の左寄り性、2025年新上場維持基準の制度化——を提供する。

    M&A / 会計

    本稿における役割: Chapter 2 の4要因複合モデル(制度=のれん会計 → 規制=独禁 → 市場=買い手供給 → 実務=バリュ合意・PMI)の各要因の出典。経産省調査「バリュ合意困難82%」が実務レイヤーの位置づけを支える。

    セカンダリー

    本稿における役割: Chapter 3 の「3層(GP/LP/employee)同時不在」と、米国3層市場(年$152〜156B)との桁差対比の根拠。

    ファンド経済 / LP

    本稿における役割: 本稿の中心概念である「LP構造アンカー」(Chapter 4-1)の定量根拠。日米LP構成の非対称性、ファンドサイズ天井の時系列横ばい、GPIFのオルタナ配分上限など、上流の規定力を検証する。

    国際比較

    本稿における役割: Chapter 4-4 の「4要因完全ロックは日本特有」の検証と、Chapter 5-4 の束設計(Yozma・Mansion House・Tibi II)の実装事例根拠。非米国における代替的なExitの存在を定量で示す。

    Disclaimer

    本稿は、日本のスタートアップExit構造に関する独立した構造モデルの提示であり、公開情報ベースの個人研究として執筆されたものである。特定のファンド・投資家・企業・案件の内部情報には一切依拠していない。

    本稿は投資助言・投資勧誘ではなく、特定の投資判断・投資戦略を推奨するものではない。制度設計・政策議論・リサーチの前提として構造議論に寄与することを目的とし、具体的な投資実務における意思決定は、読者各位の独自判断によるべきものである。

    記載された見解はすべて運営者個人のものであり、いかなる組織の公式見解をも代表しない。