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  • なぜ今、日本のセカンダリーは動き始めたのか——AIN・Kepple・Nstockが解こうとしている構造と、まだ市場にならない理由

    なぜ今、日本のセカンダリーは動き始めたのか——AIN・Kepple・Nstockが解こうとしている構造と、まだ市場にならない理由

    なぜ今、日本のセカンダリーは動き始めたのか——AIN・Kepple・Nstockが解こうとしている構造と、まだ市場にならない理由

    はじめに——「最終Exitまで待つしかない」構造に動きが出始めた

    日本のスタートアップは、IPOかM&Aに辿り着くまで、株を現金化しにくい構造を抱えてきた。IPOは小型上場への逆風が強まり、前稿で整理した通り、M&Aも米国のような厚い買い手層・大型買収の市場とはまだ距離がある。IPOやM&Aに辿り着くまでには5〜10年単位の時間がかかる。その結果、ファンドの満期を抱えるVC、ストックオプションを保有する創業者・社員、長期ロックアップを嫌がる機関投資家LP——それぞれに「最終Exitまで待つしかない」という資金循環の詰まりがあった。

    この詰まりを途中でほどく仕組みが、未上場株式のセカンダリー取引である。会社が新株を発行して資金調達する取引(プライマリー)とは違い、既存株主が持っている未上場株を別の投資家に売る取引を指す。

    そのセカンダリーが、2024〜2025年にかけて、専業プレイヤー・制度改正・公的資本の関与を伴う形で本格的に可視化され始めている。Kepple Capital、Nstock、Ant Innovations(AIN)——役割の異なる3つのプレイヤーが、それぞれ別の “層” の流動化ニーズに向き合っている。

    本稿の射程は4点。(1) なぜ今このタイミングなのか、(2) 3社が何を解こうとしているか、(3) それでもまだ何が足りないか、(4) これが機能すると何が変わるか——を、実務的な構造分析として読み解く。

    要するに、本稿の主張は3つである。

    • 第一に、日本のスタートアップは、IPO・M&Aまで株を現金化しにくい構造を抱えてきた
    • 第二に、Kepple・Nstock・AINは、それぞれVCファンド・従業員/関係者・スタートアップ本体および既存株主という異なる層の流動化ニーズに向き合っている
    • 第三に、ただし規模、価格発見、LPセカンダリー、資本政策の再構成が足りず、まだ「市場」と呼べる段階ではない

    1. なぜ今動き始めたのか——4つの圧力

    セカンダリーの必要性が同時に立ち上がってきたのは偶然ではない。VC・従業員・公的資本・投資家、4方向の圧力が重なっている。

    ① VC側の回収圧力——成熟ヴィンテージのDPI課題と資本効率の劣化

    スタートアップ投資が本格化した2014〜2017年前後のファンドが、いま満期前のリターン回収局面に入っている。LP(Limited Partner、ファンドに出資する機関投資家・事業会社)は過去の DPI——VCファンドが出資者にどれだけ現金を返せたかを示す指標——を参照して次ファンドへの追加コミットを判断する。IPO市場は従来型の小型上場への逆風が強まり、上場後に一定規模を維持できる成長ストーリーを示せる会社へと選別が進みつつある(東証グロース市場の時価総額中央値は2024年で約58億円、2025年で約102億円、EY Japan 2025年IPOレビュー)。Exit待ちで眠ったポートフォリオを抱えたままでは、次ファンドの組成は難しくなる。

    問題はIPO時価総額の小ささだけではない。「資本効率」——上場時時価総額を上場までの累計調達額で割った倍率——の劣化がより深刻だ。上場前累計調達額は2010年代を通じて数倍規模に拡大したとされる一方、IPO時価総額の中央値は東証グロース市場で長らく50〜100億円帯に滞留してきた——2024年は58億円、2025年は社数が約4割減る一方で102億円へ上昇している(EY Japan 2025年IPOレビュー)。ただし、これは小型IPOの選別・抑制による母集団変化の影響を含むと見るのが自然であり、個社の出口時価総額が構造的に上昇したとまではまだ言い切れない。調達額の累積拡大に出口時価総額が同水準では追随していない——この資本効率の悪化が、累積優先株の希薄化と相まってVCの実現倍率を構造的に圧迫してきた。

    その帰結は、ファンド・パフォーマンス、とりわけ成熟ヴィンテージの現金分配圧力に表れる。JVCA・Preqin「日本のプライベートエクイティ市場ベンチマーク」第7回(2024年版) によれば、2010〜2013年ヴィンテージは安定的にネットマルチプル2倍水準を達成し、2014年ヴィンテージでは DPI 1倍超えに到達している。一方、2015〜2020年ヴィンテージについては、同調査で「分配およびマークアップともにアップサイドは限定的」とされている(同調査の概要報告、ヴィンテージ別パフォーマンス分析。具体的な数値・図表はレポート本体に依拠する)。

    ただし、若いヴィンテージほどDPIが低く出ること自体は、ファンドライフサイクル上自然であり、それだけをもってパフォーマンス悪化とは言えない。ここで重要なのは、2014〜2017年前後に組成されたファンドが回収局面に入りつつある一方で、IPO・M&Aの出口容量が十分に厚くなっておらず、最終Exitだけに依存すると現金分配のタイミングを読みづらい点である。TVPI(投資先資産の含み益も含めた評価額)上の評価が残っていても、DPIとして現金化されるまでの時間が長引けば、次ファンド組成時の説明難度は上がる。

    つまり問題は、「新しいヴィンテージのDPIが低いこと」ではなく、「回収局面に入ったファンドが、最終ExitだけではDPIを作りにくい構造」にある。ここに、最終Exitを待たずに途中で一部を実現する経路——セカンダリーの必要性が立ち上がる。

    ② 従業員・関係者の流動化——採用競争上の経営インフラ化

    トップ層のエンジニア・PdMにとって、ストックオプションが流動化できない構造は、米国型シリコンバレー水準の機会と比べて明確な差がある。SaaS・AIスタートアップが世界水準の人材獲得競争に晒される中、従業員・関係者の流動化手段の有無は 採用と人材の定着を左右する経営インフラとしての色彩を強めている。2024年のストックオプション税制改正(権利行使限度額の引き上げ、社外専門人材への付与拡大)は、その需要に制度側から応えた格好だ。

    ③ 公的資本の関与強化——支援策から構造設計へ

    JICが2025年10月にKepple Liquidity 2号への30億円LP出資を決めたのは象徴的だ。スタートアップ育成5か年計画(2022〜2027年、10兆円規模)、FSA・METIのスタートアップ株式流動化議論——これらは個別の支援策というより、Exit構造そのものを設計対象に組み込もうとする動きとして読める。公的資本は単なる触媒ではなく、構造設計の一部として関与しつつある。

    ④ 投資家サイドの吸収需要

    買い手側にも合理性がある。レイター期スタートアップに資金供給したい投資家にとって、プライマリー(新株発行による資金調達)で十分な配分を得られない場合、セカンダリーは既存ラウンドのバリュエーションを参照しつつ、既存株主のExitと自らの参入機会を同時に組成できる手段になりうる。

    つまり、「VC側の回収圧力」「採用競争上の経営インフラ需要」「公的資本の構造設計関与」「投資家側の吸収需要」——4方向の圧力が同時に重なっているのが、今のタイミングである。

    図1: 「最終Exitまで待つしかない」構造 → 4方向の圧力 → セカンダリーが二極化の両側を担う器として立ち上がる

    2. セカンダリーが必要になる2つの場面——IPOまでの “中継ぎ” と、IPO以外の “代替出口”

    3社の役割を見る前に、ひとつ整理しておきたい。セカンダリーへの需要は、性質の異なる2つの場面から立ち上がる。

    1つは “中継ぎ”。最終的にはIPO(または大型M&A)を目指すが、そこに辿り着くまで5〜10年かかる間に、VCが回収を必要としたり、創業者・社員のストックオプション換金需要が生まれたりする場面である。既存株主の出口と、買い手側の参入機会を同時に作る。

    もう1つは “代替出口”。小型IPOのハードルが上がる中で、上場後に100億円以上の時価総額を維持できる成長ストーリーを示せる会社と、そこに届きにくい会社で、Exit設計が分かれていく可能性がある(東証グロース市場の維持基準見直しは2030年3月1日以後の事業年度末から適用、改善期間・計画開示による例外あり)。後者の会社にとって、株式買取と経営支配権の設計を組み合わせた buyout 的アプローチが、潜在的な選択肢の一つとして浮上している。

    セカンダリーは、この2つの場面を担う器として立ち上がりつつある。3社の役割分担は、それぞれが別のエンドユーザー(VC・従業員・スタートアップ本体)に対する別のニーズに応える形で現れている。

    Kepple Capital——ダイレクトセカンダリー専業

    Kepple Liquidity Fund は、2022年に設立された国内有数のダイレクトセカンダリー専業ファンドだ。1号は2024年5月に約100億円でファイナルクローズ2号は2025年10月に約61億円でファーストクローズした(うちJICから¥30億円のLP出資)。

    ターゲットは、ミドル〜レイターステージのスタートアップ既存株主から、未上場株を直接取得するダイレクトセカンダリー投資。VCファンドが満期を迎える前に保有株を売却する場面、レイター期のラウンドに合わせて、会社承認のもとで既存株主に売却機会を提供する流動化プログラム型の取引などが想定される(米国スタートアップ実務でいう “tender offer” 型に近い形式だが、ここでの “tender offer” は上場会社の公開買付け(TOB)ではなく、未上場会社における会社承認型の株式流動化プログラムを指す)。国内で先行する専門プレイヤーとして、VCのファンド寿命に対する出口を提供する位置づけだ。

    Nstock——従業員・関係者の流動化インフラを志向

    Nstock は、株式報酬 SaaS(ストックオプション管理プラットフォーム)を起点に、2024年9月に約¥30億円を第三者割当増資で調達している。その後、2025年5月には、SmartHRグループが保有するNstock株式のセカンダリー取引と第三者割当増資を組み合わせた約¥18億円規模の取引も成立している(Nstock 2025年5月13日発表)。

    従業員・関係者の未上場株式流動化では、一般に RoFR(先買権、既存株主が他に売る前に優先的に買える権利)、税務手続き、価格設定、会社承認などの事務・実務コストがボトルネックになる。Nstock は、株式報酬SaaSを起点に、こうした領域に近接するインフラを志向しているが、公表情報上、セカンダリー事業自体は準備段階にあり、金融事業者としての展開可能性については同社も慎重な表現をしている(Nstock 2025年5月発表)。本格的なプラットフォーム機能の実装は、今後の進捗を見る局面にある。

    Ant Innovations——セカンダリー × プライマリーの組み合わせ

    Ant Innovations(AIN)は、Ant Capital Partners の100%子会社として2025年11月に設立された(資本金30百万円、代表: 水本尚宏氏)。公表資料上、AINが明示しているのは、ベンチャーセカンダリーを基本に、案件に応じてプライマリー投資を組み合わせる設計と、事業会社からのカーブアウト支援である(Ant Capital Partners 2025年12月発表)。

    公表資料から見る限り、AINの設計は、既存株主の流動化と投資先への成長資金供給を同時に扱う点に特徴がある。これは、米国のレイター期スタートアップで見られる「既存株主向けの売却機会」と「会社への新規資金」を組み合わせる取引(実務上は “Tender + Primary” と呼ばれる類型)と近い論点を含んでいる。

    これが将来的に、IPOに届きにくい企業へのより深い関与や、buyout 的な再設計に広がっていくかは、今後の実績を見る必要がある。次節で触れるように、IPO非到達層への buyout 的設計は、日本のスタートアップ資本政策に内在する複数の制約と向き合うことを要求する領域だからである。

    図2: 3社の役割分担——Kepple(VCファンド層)、Nstock(従業員・関係者層)、AIN(スタートアップ本体・既存株主層)が解く別々のボトルネック

    3. それでも、まだ “市場” にはなっていない

    ここまでは前向きな話だった。だが厳しく見れば、重要なのは「3社が存在している」ことではなく、「まだ市場と呼べる段階にない」ことである。

    規模の壁

    日米のセカンダリーは、計測指標も発展段階も異なるため厳密な比較は難しいが、規模感には大きな差がある。未上場スタートアップ株式のプラットフォーム取引高ベースで見ると、米国では Forge Global が2024年通年で約13億ドル、Nasdaq Private Market が2024年上半期だけで約42億ドルの構造化セカンダリーを扱っている(Forge Global は2026年3月に Charles Schwab による買収が完了し、同社傘下に入った)。

    これに対し日本では、Kepple のようにファンド AUM(運用資産)と取引実績が見えるプレイヤー、Nstock のように事業会社としてインフラを志向するプレイヤー、AINのように新設された投資会社が並び始めた段階であり、米国のように年間取引高で市場規模を語れる段階にはまだ至っていない。立ち上がり段階の “象徴的な存在” であり、市場の厚みとは呼びにくい。

    価格発見メカニズムの薄さ

    米国では、409A評価(米国税法上の公正市場価値評価、ストックオプション付与時等の評価実務の基盤)、投資家による評価実務、セカンダリープラットフォーム上の取引データなどが重なり、未上場株の価格を参照する材料が日本より厚い。一方、日本ではセカンダリー取引が個別交渉に依存する比重が高く、横断的な価格参照軸はまだ薄い。これが整わない限り、取引コストが高止まりし、市場規模はある天井で頭打ちになる。

    LPセカンダリーの独立した市場の未形成

    3社が動いているのは、主にダイレクトセカンダリー(VCや既存株主からの直接持分取得)・従業員/関係者の流動化・セカンダリー+プライマリーの組み合わせだ。だが、LP(Limited Partner、ファンド出資者)が既存ファンド持分そのものを売却する独立した LPセカンダリー市場は、日本ではほぼ未形成である。これは、スタートアップ株式そのものを売る取引ではなく、VCファンドに出資しているLPが、自分のファンド持分を別の投資家に売る取引を指す。機関投資家LPがVCにコミットする際の「途中売却可能性」というオプション性を提供するもので、米欧では大きな市場を形成している。日本でこれが薄いままだと、ロックアップ嫌忌が解消せず、機関LPの本格参入は進みにくい。

    後期段階の大規模 secondary キャパシティの不足

    Series C 以降のラウンドサイズが拡大した場合、それに対応できるセカンダリー取引のキャパシティが、現状の3社規模では十分とは言えない。Kepple も2号がファーストクローズ段階、AINもまだ設立直後で実績はこれから。スケールアップ期のスタートアップが「セカンダリー経由でExitを設計する」前提で動けるレベルには、まだ至っていない

    資本政策の制約——優先株式の権利関係と支配権設計

    ここまでは規模・インフラ・LP層の論点だった。さらに踏み込むと、IPO非到達層に対する代替出口を本格化させるには、資本政策の制約と向き合う必要が出てくる。

    少なくとも2017年時点の Coral Capital の登記簿調査(シリーズA、107社)では、日本のシリーズA相当の優先株式において 「1倍参加型」が全体の約3/4を占めていた——米国(1倍非参加型が大宗)と大きく乖離する。足元の契約慣行には変化がある可能性はあるが、参加型優先株がM&A時の分配に与える影響は、IPO非到達層の代替出口を考えるうえでなお重要な論点である。

    参加型優先株は売却時に「優先分配 + 残余の按分」の両方を取れるため、複数ラウンドを積み重ねるほど累積優先回収権の総額が大きくなる。Coral Capital の解説(2019年)を踏まえると、たとえば2倍参加型優先株で2億円を調達した会社が2億円で売却された場合、優先分配額は4億円となり、買収対価2億円を上回る——その場合、実際の分配では買収対価の全額が優先株主側の優先分配に吸収され、創業者・普通株主の手元には残らない、という構造になる。ダウンサイドの Exit では、累積優先回収権が対価の大宗を吸収し、普通株主の取り分がほぼ残らないケースが構造的に起こりやすい。

    これを Exit 可能な形に再構成する方法は、買い手による支配権取得(マジョリティ取得 + tender offer + 経営者向けインセンティブ再設計)だけではない。実務的には、既存優先株主の同意による条件変更、優先株の一部放棄、リキャップ(資本構成の再編)、経営陣への新インセンティブ付与、普通株主向けの別建て対価、M&A契約上の調整——など、複数の手段がある。買い手による支配権取得や buyout 的な設計は、その選択肢の一つである。

    ただし、日本のVC実務には文化的な慣行がある。創業者が過半数の議決権、または少なくとも重要事項に影響を持てる水準の持分を維持することが、資本政策上望ましいと説明されることが多く、初回ラウンドのVC取得比率を15〜20%に抑える慣行とも整合する(坪井司法書士事務所、Coral Capital 法人設立ベストプラクティス等)。創業者から見ても、後続投資家から見ても、買い手側のマジョリティ取得は標準的な選択肢として位置づけられていない。

    したがって、IPO非到達層に対する代替出口を設計しようとすると、単なる株式買取にとどまらず、優先株の権利関係・普通株主のインセンティブ・経営支配権の設計を含む再構成が必要になる場合がある。この再構成のハードルは規模・インフラ・LPセカンダリーの3点とは性質が異なり、契約・実務・慣行の3層が同時に動く必要がある。

    3社は 市場形成の初期局面にある段階であり、本格的な市場形成には、規模・価格発見・LPセカンダリー・資本政策の再構成、それぞれの層で変化が積み重なっていく必要がある。

    なお、未上場株式のセカンダリー取引は、譲渡制限・株主間契約・先買権・会社承認・インサイダー情報管理・税務処理・金融商品取引業への該当性など、制度・実務上の制約を伴う領域である。2025年5月施行の金商法改正で一部の規制環境は変化したが、個別取引はいずれもこれらの制約を前提に設計される。

    4. これが機能すると何が変わるか——3つの因果チェーン

    §3で述べた壁——規模・価格発見・LPセカンダリー・資本政策の制約——が段階的に和らぎ、これらの動きが市場規模に育っていくと、Exit構造全体に波及する経路は3つある。

    チェーン①: VCファンド → ファンドサイズ天井の更新

    セカンダリーが成立する
    → VCが途中回収しやすくなる
    → DPIが改善する可能性がある
    → 次ファンドへのLPコミットが増えやすくなる
    → 前稿で整理した国内VCファンドサイズの中央値が上がる余地が生じる
    → レイター成長資金の供給能力が増す
    → IPOに依存しないスケールアップが視野に入る

    これは前回 なぜ日本はExitが弱いのか で論じた「LP構造アンカー → ファンドサイズ天井」の連鎖を、下流から逆方向に押し上げる経路だ。流動性軸の動きが、上流のLP構造の制約を緩める方向に作用しうる。ただし、セカンダリーによるDPI改善は、本来のIPO・M&Aによる売却と比べて持分を割安に手放す場合もあり、TVPIとのトレードオフは個別案件次第である。

    チェーン②: 従業員・関係者の流動化 → 人材循環

    権利行使後の株式を流動化しやすくなる
    → ストックオプション由来の経済価値が実現しやすくなる
    → トップ層人材が日本スタートアップを選択肢に入れやすくなる
    → 人材の定着が改善する余地が生まれる
    → Exit後の起業家・幹部の連続的な再挑戦が増えやすい
    → エコシステムの厚みが積み重なる

    これは “Exit構造” を超えて、人材循環という別の構造的ボトルネックに作用する経路である。米国エコシステムの厚みの源泉の一つは、Exit経験者が次のスタートアップを起こす連続性にあるが、日本ではここが薄かった。

    チェーン③: LPセカンダリー→ 機関LPの参入入口

    LPセカンダリーの市場ができる
    → 機関投資家LPに「途中売却可能性」が見えるようになる
    → ロックアップ嫌忌が緩む方向に作用する
    → 年金・基金がVC配分を検討しやすくなる
    → LP構造そのものに変化が生じる余地が出る

    3つのチェーンの中で、最も上流まで届く経路がこれだ。LPセカンダリーが機能すれば、これまで「動かない」と論じてきたLP構造アンカーに対する変化の余地が広がる。ただし機関LPのVC配分は、流動性以外にも、リスク管理体制・トラックレコード・規制・全体アロケーション方針に左右されるため、LPセカンダリー単独では決まらない。現状この市場は最も薄く、3社はここに直接タッチしていない。次に問うべきはここである

    おわりに——「立ち上がり始めた一角」をどう見るか

    これまでの記事で、日本のExitが小型化する構造(小型Exitの罠)、その背後の LP構造アンカー+4要因ロック、公的VCが Series B で信用補完として効くこと、そして起業家・エンジェルの再循環は選別が機能して初めて起きること——を順に論じてきた。いずれも、日本のスタートアップ資本市場の “下流” は構造的に薄いという認識を共有する論考だった。

    その下流に、いま “立ち上がり始めた一角” がある。Kepple、Nstock、AIN。それぞれの規模はまだ象徴的だが、4方向の圧力が重なった結果として動き始めている。

    ただし、市場としての成熟にはまだ距離がある。次の数年で問われるのは、(1) 公的支援が継続するか、(2) 価格発見の参照軸が整っていくか、(3) LPセカンダリーが立ち上がるか、そして (4) IPO非到達層に対する代替出口を支える資本政策の制約——優先株式の権利関係、創業者議決権をめぐる慣行、契約・実務の調整——が再構成されていくか——の4点だ。これらが段階的に進めば、これまでの記事で論じた一連の補完的改革(LP・買い手・流動性・起業家軸を束で動かす設計)における「流動性軸」の現実装として、機能する余地が広がってくる。

    現在地は「まだ市場ではないが、確実に動いている」——構造分析の立場から見れば、それ自体が日本のスタートアップ資本市場における重要な変曲点である。

    References

    国内プレイヤー

    米国セカンダリー市場(規模対比)

    制度的背景

    IPO・資本効率 / VCパフォーマンス(§1①)

    優先株式・資本政策(§3)

    関連記事

    Disclaimer

    本稿は、日本のスタートアップ・セカンダリー市場の現状に関する独立した分析であり、公開情報ベースの個人研究として執筆されたものである。記載された企業・ファンドの内部情報には一切依拠していない。

    本稿は投資助言・投資勧誘ではなく、特定の投資判断・投資戦略を推奨するものではない。制度設計・政策議論・リサーチの前提として構造議論に寄与することを目的とし、具体的な投資実務における意思決定は、読者各位の独自判断によるべきものである。

    なお、未上場株式およびファンド持分の取引は、流動性・価格算定・情報開示・譲渡制限・投資家適格性等に関する制約を伴う。本稿は、一般投資家による未上場株式・ファンド持分の取得または売却を促すものではない。

    また、本稿は法務・税務・会計上の助言を目的とするものではない。未上場株式、ストックオプション、ファンド持分の取引・設計にあたっては、個別事情に応じて弁護士、税理士、公認会計士その他専門家に確認されたい。

    記載された見解はすべて運営者個人のものであり、いかなる組織の公式見解をも代表しない。

  • なぜ日本はExitが弱いのか——3つのExitの共通構造を読み解く

    なぜ日本はExitが弱いのか——3つのExitの共通構造を読み解く

    なぜ日本はExitが弱いのか——3つのExitの共通構造を読み解く

    はじめに——日本のExitは「数」ではなく「規模」で小さい

    日本のスタートアップExitは、M&A件数を中心に一定の動きがある一方、IPOは件数自体が減少傾向にある。共通するのは、1件あたりの規模が海外と桁違いに小さいことだ。たとえば東証グロース市場のIPO時価総額の中央値は、2024年で58億円、2025年でも102億円にとどまる(EY Japan)。M&Aやセカンダリー取引でも、同じような規模の差が見える。

    先行記事海外VCから見た日本のスタートアップ市場では、この現象を “small exit trap”——IPO偏重・M&A未発達・セカンダリー未成熟が重なった状態——として整理した。本稿ではその構造の分解を試みる。

    「米国より小さい」だけでは、日本の特異性は説明できない。米国はIPO・大型M&A・セカンダリー・機関投資家LPの4層がいずれも厚い世界的な例外であり、欧州やアジアの多くは米国ほど深くはない。つまりアメリカ以外での一般的な状況というものは存在する。だが日本はそこにも当てはまらない。他の国々はどこかに別のExit手段(M&Aやセカンダリーなどの代替経路)を持っているのに対し、日本だけが代替的なExitを欠いたまま、複数の制約が同時に重なっている。

    ひとことで言えば、米国は規模で例外、日本は制約の重なり方で例外である。詳しい比較は後半で扱う。まずはIPO・M&A・セカンダリーの3つのExitについて、何が問題で、なぜそうなっているのかを順に見ていきたい。


    1. IPO——「早く小さく上場する」が合理になる構造

    何が問題か

    東証グロース市場のIPO時価総額の中央値は、2024年58億円、2025年102億円にとどまる。Astroscale 1,448億円、Soracom 676億円、VRAIN SOLUTION 525億円のような大型上場は存在するものの、裾野は薄い。50億円未満が約3割、30億円未満が約2割で、分布が明らかに左に寄っている。米国の数十億〜数百億ドル級のIPOとは桁が違う。

    なぜそうなっているのか

    理由は「上場後にお金を集めにくい」ことにある。日本のIPO後の市場では、セカンダリーオファリングやフォローオン調達の厚みが限定的だ。機関投資家の新興株式への配分が、自主規制や運用ガイドラインで実質的に制限されている。結果として、上場は成長資金を集める「最終手段」となり、創業者やVCにとっては早く・小さく上場することが合理的な選択になる。

    加えて、東証グロース市場の上場維持基準見直しにより、「上場5年経過後に時価総額100億円以上」が制度化された(既上場会社への本格適用は2030年以降、2025年末以後の新規上場申請会社は想定時価総額100億円未満なら成長戦略の追加説明が求められる)。Business Insider報道では2025年3月末時点でグロース上場企業の約68%が100億円未満とされ、規模の天井が制度として明示された形だ。

    残念ながら、IPOが企業の成熟を示すマイルストーンではなく、創業者やVCが資金を回収するための一場面として機能してしまっている。


    2. M&A——4つのレイヤーが同時に縛っている

    何が問題か

    日本のスタートアップ関連M&Aの件数は、MARR等のデータによれば長期的に増加傾向にある(2015年103件→2023年187件など)。2024〜25年も一定の水準を維持しているが、課題は件数ではなく比率と単価にある。日本はExitに占めるIPOの比率が高く、M&A経由の出口が相対的に薄い構造になっている(KPMG調査では、日本のVC ExitはIPOが大きく上回るのに対し、米国はM&Aが中心とされる)。買収単価でも、日本は小型案件が中心で、米国とは規模面で大きな差があるとされる。

    なぜそうなっているのか

    M&Aの小ささは1つの要因では説明できない。制度→規制→市場→実務の4つのレイヤーが重なって、買収規模と件数の両方を抑え込んでいる。

    (1) のれん会計(制度レイヤー) J-GAAPでは、のれんは原則20年以内で定期償却される(IFRSや米国基準は非償却+減損テスト)。たとえば串カツ田中HDがピソラを88億円で買収したケースでは、のれん約87億円が発生し、15年均等償却で計上される(同社開示)。J-GAAP特有の定期償却は買収後の利益指標に長期にわたって影響し続ける構造で、買収対価が大きいほどPLへの圧迫が継続する。

    ただし、これだけでM&Aが動かない理由を説明しきれない。ASBJで2025〜26年に非償却化が議論されているが、IFRS採用企業(MUFG、NECなど)の買収件数だけでJ-GAAP企業との明確な差を断定するのは難しい。会計の見直しだけでM&Aが動くわけではないと考えられる。

    (2) 独禁の予見性(規制レイヤー) 公正取引委員会の企業結合審査は、2019年のデジタル分野ガイドライン以降、対価400億円超で一定の条件を満たす案件について、事前相談が推奨されている。一方で、10〜400億円帯——日本のスタートアップ買収のほとんどが収まる帯域——は一般審査に戻る。この帯域での予見性が不十分なことは、大型買収を控える理由になる。制度はあるが、スタートアップM&Aの主戦場には届いていない。

    (3) 買い手の供給(市場レイヤー) JICの2024年上半期の観察によれば、日本のM&A件数は前年同期比+43件の125件に増えたが、その多くは上場新興企業による買収だった。米欧のような大型上場テック企業や、PEバックの consolidator(買収を続ける企業群)が継続的に買う構図にはなっておらず、買い手層が薄い。この薄さは後述するLP構造にもつながるが、市場レイヤーだけ見てもM&A単価を抑えている。

    (4) PMI・バリュエーション合意(実務レイヤー) 制度・規制・市場の制約が重なる先で、最後にディールの成否を分けるのが実務レイヤーだ。買収を見送った大企業への経産省アンケート(2020年度報告書)では、①バリュエーション合意困難、②PMIにおける文化問題が上位を占めている。将来成長率の評価が日米で乖離し、財務情報の粒度差や、米国の409A評価のような公正価値評価インフラの不在が、バリュエーション合意を難しくしている。雇用継続慣行とスタートアップ文化の軋轢も、PMIのコストを押し上げる。

    ただしこの実務レイヤーは、独立した主因とは見ない方が筋が通る。上流の制約が下流で結果として現れたものと捉えたほうが自然だからだ。バリュエーション合意の難しさは買い手供給の薄さに、価格評価インフラの不在はセカンダリー市場の未熟さに、それぞれ連結している。個別ディールでは実務摩擦が前面に出るが、その頻度と深さを決めているのは上流の構造だ。

    つまり4層の重ね縛りである以上、たとえば「のれんを非償却化する」だけでは他の3層が残り、波及は限定的にしかならない。これが、後述する「単一レバーだけでは動きにくい」議論の前提になる。


    3. セカンダリー——3つの層がいずれも薄い

    何が問題か

    日本のスタートアップ向けセカンダリー市場は、ようやく初期的に立ち上がり始めたところだ。GP secondary(既存ファンド持分の取引)、LP direct secondary(LPが直接持分を売却する取引)、従業員liquidity(社員の株式換金)の3層を扱う専業プレイヤーは、Kepple Capital(AUM 100億円規模)、Nstockに加え、2025年にはAnt Innovationsも設立されるなど、ごく初期的に出始めた段階にある。

    一方、米国ではForge Globalが2024年通年で13億ドルのtrading volume(前年比+73%)、Nasdaq Private Marketは2024年上半期だけで42億ドルの構造化セカンダリーを取り扱うなど、個別プラットフォーム単位でも規模が違う。さらにLazardが示すグローバル・セカンダリー市場全体(PE/LPセカンダリー含む広義)は2024年で約1,520億ドルに達しており、日本との比較ではプラットフォーム単位・市場全体ともに桁違いの差がある。

    なぜそうなっているのか

    理由は3層すべてに制約がかかっていることだ。契約慣行(ROFR=先買権、譲渡制限、会社承認条項)が売却の自由度を縛り、米国の409A評価や mark-to-market のような価格発見メカニズムが欠けていて、専門投資家やプラットフォームの層もまだ薄い。2024年のストックオプション税制改正で従業員liquidityの一部は緩和されたが、譲渡益課税の複雑さと執行インフラの不在で、実装は進んでいない。

    結果として、GPファンドの回転率は下がり、LPがリターンを回収するタイミングは遅れる。これが次章で見るLP構造へのフィードバックにもなっている。


    4. なぜ全部が弱いのか——LP構造という上流アンカー

    ここまでで、IPO・M&A・セカンダリーの3つのExitがそれぞれの理由で小さいことを見てきた。だが本当の問題は、これらが独立した話ではない点にある。

    図1: LP構造アンカー → 4要因ロック → 規模の天井(階層構造)

    4-1. 上流アンカー——日本のLPは米国と違う

    日本のVCのLP構成は、米国と本質的に異なる。内閣府CSTIの2021年比較では、日本は銀行38%、事業会社38%が中心で、両者で計76%を占める。一方、米国は財団23%、企業年金19%、大学エンダウメント10%、公的年金13%と、大学・財団・年金が中心で計65%を占める。

    この違いはただの「出資者の顔ぶれ」の問題ではない。ファンドの経済構造そのものを決めている。事業法人や金融機関のLPには、(i) 1ファンドあたりの出資上限が小さい、(ii) 戦略目的が主で純粋なリターン追求ではない、(iii) 長期ロックアップを嫌う、という3つの傾向がある。結果として日本のVCは「小口LPを多数積み上げる」型にならざるを得ず、1人のLPから1億ドル以上のコミットを引いてくる米国型の大型ファンドが、構造的に組成できない

    数字でも確認できる。日本VCの62%は1億ドル未満、43%は5千万ドル未満(Chambers 2025)。ファンドサイズの中央値は2015〜2025年を通じて30億円で横ばいだ。米国VCの主流は5千万〜5億ドル以上、上位は10億ドル以上。この、LP構成が決めているファンドサイズの天井こそが「上流アンカー」と呼びたい部分である。LP構成が変わらない限り、下流でどんな改革をしても、天井は本質的には動かない。

    4-2. 下流の4要因ロック

    LP構造アンカーが決めるファンドサイズの天井は、下流の3ルートで4要因のロックとして現れる。

    要因内容強さ
    (1) IPO制度厳格化2025年東証新基準が天井を制度化(5年で100億円)
    (2) のれん会計20年J-GAAPの定期償却が買収PLを圧迫(串カツ田中HDの例)寄与
    (3) 買い手供給限定バリュ合意困難82%、PMI文化、CVC買い手の薄さ
    (4) セカンダリー不在3層(GP/LP/employee)すべて欠落、米約1,500億ドル vs 日ほぼゼロ

    重要なのは、これら4要因が独立ではなく、LP構造という同じ上流の影響下で同時に働いていることである。1つを外しても他の3つが残るので、単一のレバーで突破するのは難しい。

    4-3. 弱いフィードバック——下流から上流への戻り経路

    階層構造は完全な一方通行というわけではなく、1本だけ下流から上流に戻る弱いフィードバック経路がある。小型のExitしか出なければDPIは伸びにくく、LPは過去のDPI実績を参照して次ファンドへの追加コミットを抑える。その結果、ファンドサイズはさらに小さくなり、次世代のExitも小型化していく。

    ただしLP構成そのもの(事業法人・金融機関中心の配分)は、1980年代以降の日本資本市場の文化に根ざしている。下流からの弱いフィードバック程度では、その基盤までは動かない。そのためこの構造は「相互強化ループ」ではなく「上流アンカー + 下流カスケード + 弱いフィードバック」と表現するのがふさわしい。あくまで上流→下流が主、下流→上流が従である。

    4-4. 日本の特異性——他の国はどこかに「別のExit手段」を持っている

    冒頭でも触れたが、米国はIPO・大型M&A・セカンダリー・機関投資家LPの4層がすべて厚い世界的な例外だ。Nasdaq Private Marketは2024年上半期だけで42億ドルの構造化セカンダリーを扱い、同年のプライベート・テンダー総額はVC-backed IPO額を超えた。機関LPもYale エンダウメント 414億ドル(FY2024)、NASRA加盟の公的年金合計 5.13兆ドル(FY2024末)と、規模が違う。

    非米国に目を移すと、状況は変わる。欧州年金のVC配分はAUMの0.01%(英・アイルランドは0.007%)、欧州VC-backed M&A exits の9割以上が1億ドル未満で、small exit は非米国では普遍的に観察される現象だ。ここまでは日本に似ている。

    しかし欧州・インド・イスラエルには、日本にはない別のExit手段がある。

    • 欧州: EMEAでは venture-backed exits の 85%以上がM&A——上場市場が弱くても、米国企業への統合が代替的なExitになっている。さらに英Mansion House Accord(2030年までにDC年金の10%を private market へ、うち5%を英国へ)や、仏Tibi II(120の認定ファンドが累計 300億ユーロ 調達、約 130億ユーロ を startup/scale-up に投下)といったLP動員型の改革がすでに動き出している。
    • インド: 2024年のVC/growth exits は68億ドル、うち public market exits の比率が55%から76%へ上昇している。IPO exit value は約7倍の15億ドル、セカンダリーも10億ドル → 15.5億ドル。国内の公開市場とセカンダリーが、補完的な役割を担い始めている(Bain/IVCA 2025)。
    • イスラエル: 2024年のExit総額133.8億ドル、うちM&Aが126億ドル(価額の94%、件数の89%)、5億ドル超の大型M&A案件も8件成立している(PwC Israel)。国内の機関LPは”still minimal”で日本に近いが、グローバル資本とUS企業への統合を通じて、M&A単独でExitを補える構造を持っている。

    日本には、これらに相当する別のExit手段がない。そのため、どれか一つのレバーを動かしても、すぐに別の制約にぶつかってしまう。IPO制度は厳しく(5年で100億円)、のれんは償却必須、買い手層はJICの観察通り上場新興中心で薄く、セカンダリーは事実上ゼロ、国内機関LPもGPIFのオルタナ上限5%・PE残高 8,657億円(2025年3月末時点)にとどまる。

    要因日本英国フランスインドイスラエル
    IPO制度厳格化🔲
    のれん会計20年
    買い手供給限定🔲
    セカンダリー不在🔲🔲
    機関投資家LP薄🔲🔲🔲
    別のExit手段なし年金改革年金改革・US買い手国内公開市場US M&A統合

    ⬛=ロックあり /🔲=部分 / ⬜=ロックなし

    日本の特異性は「要因の中身が日本独自である」ところにあるのではない。「4要因が同時にロックされ、しかも代わりとなるExitを欠いている」その完全さにある。英・仏・印・イスラエルでは単一の目立つレバー(年金改革、公開市場、クロスボーダーM&A、US統合)が効いて見えるが、それは他のレバーが事前に最低水準で揃っていたからこそ、その一手が機能している構図である。日本ではこの下地そのものが薄いため、単独の改革では効果が限定的になりやすい。だからこそ、向かう先はLP構造を起点に複数レバーを同時に動かす coordinated reformとなる。

    4-5. 「規模の天井」を再定義する

    ここまで見てきたとおり、日本のExit問題は「Exitがない」ことではない。3つのExitは存在している。問題は、各Exitの受け手側がどれだけの資本を吸収できるかの天井であり、その天井を決めているのがLP構造という上流アンカーだ。資本市場の厚み・多様性・流動性は、LP層の厚み・多様性によって決まる。VC市場の上流を動かさずに下流のExitだけ改革しても、天井そのものは動かない。ここに本稿の中心的な結論がある。


    5. どう変えるべきか——「単一レバー」ではなく「束で動かす」

    5-1. 単一レバーだけでは動きにくい理由

    ここから見えてくるのは、他国の改革も単一レバーだけで成立していたわけではないということだ。下地——他のレバーが最低水準で揃っていること——がある上に、目立つ一手が乗っかって機能している構図である。日本ではこの下地が薄いため、個別レバーだけを動かしても、直後に次の制約に当たってしまう

    たとえばIPO要件を緩和しても、ファンドサイズの天井が低いままでは成長資金の供給が追いつかず、結局小型上場に戻る。LP軸単独で機関LPを拡大しても、IPO・M&A・セカンダリーの出口が整わなければ、ファンドの資金は滞留してしまう。

    したがって日本では、まず下地を最低水準まで引き上げる多軸の同時の動きが先に必要になる。政策設計の問いは「どのレバーを選ぶか」ではなく、「どの最小セットを同時に動かすか」から始まる。これは個別政策の優先順位の話ではなく、構造に対する設計の話だ。

    5-2. 最小同時改革セット——LP・買い手・流動性の3軸

    具体的に動かすべき最小セットは、以下の3軸だ。

    • ① LP軸(資本の供給源): 年金やエンダウメントのVC配分の拡大、政府系LPの exit gate 設計の改善
    • ② 買い手軸(M&A市場の構造): CVCの活性化、のれん非償却化、独禁の予見性帯の整備、PMI人材の蓄積
    • ③ 流動性軸(セカンダリー市場): GP/LP/従業員の3層整備、価格発見インフラの構築、ESO税制の明確化

    3軸は独立ではなく、相互に強化し合う関係にある。LP軸が動けばファンドサイズの天井が上がり、買い手層の大型化やセカンダリー需要の深化を引き起こす。逆に流動性軸が動けばGP回転率が改善し、LPリターンが向上し、それがLP軸への再投資を呼ぶ、という循環が起動する。3軸を同時に動かしてはじめて、別のExit手段が形成され、個別改革では得られない波及効果が出てくる。これが「束で動かす」の意味だ。

    5-3. LP軸を起点にする理由——ただし単独では足りない

    3軸のうちどこから手をつけるかというと、LP軸が起点になる。理由は2つある。

    第一に、LP構造は4-1で見たとおり、天井そのものを決めている外側のアンカーであり、ここを動かさずに下流を改革しても、土台の資本吸収能力は増えない。第二に、LP軸の動きは他2軸への波及スピードがいちばん速い。ファンドサイズが拡大すれば、レイター資金供給・M&Aの買い手能力・セカンダリー需要が連動して動く。

    ただしLP軸だけでは足りない。機関LPが拡大してファンドサイズが上がっても、J-GAAPのれんが残れば買収PLの圧迫は続くし、セカンダリーが不在ならGP回転率は改善せず、LPリターンの循環は完成しない。LP軸は起点であって、完結点ではない。優先順位はあるが、3軸を同時に実装することが前提になる。

    5-4. 「束で動かした」海外の事例

    すでに複数のレバーを同時に動かしている国の事例は、束として設計するアプローチを支持する。重要なのは、これらが「単体政策の効用比較の結果として勝ち残った」のではなく、最初から束として設計されていたということだ。

    • イスラエル / Yozma(1993〜): 政府が1億ドルを投入し、10本のVCファンドへ出資、政府は40%持分を保有して民間パートナーが5年後にbuyoutできる設計で民営化を促した(OECD)。LP軸(政府LP)+ 買い手軸(M&A志向VCの輩出)+ exit gate設計を同時に実装した束として知られ、その後のイスラエルVC市場の厚みの形成に大きく寄与したと評価されている。
    • 英国 / Mansion House Accord(2025〜): 17のDC年金プロバイダーが(対象資産2,520億ポンド)、2030年までにデフォルトファンドの10%を private market へ(うち5%を英国へ)投資する意向を表明している。単なる年金改革ではなく、Growth Market改革・上場要件の柔軟化・DC年金制度の見直しの複合パッケージとして展開されている。
    • フランス / Tibi II(2022〜): LPの累計配分目標 150億ユーロ以上、120の認定ファンドが累計 300億ユーロ を調達し、約 130億ユーロ を startup/scale-up に投下している(2025年9月時点、仏トレゾール総局)。French Tech Visa・AI戦略と連動した、移民政策 + 資本政策 + 公共投資の束として設計されている。

    日本にも、対応する政策素材はすでにある。JICの政府系LP機能、GPIFや企業年金のオルタナ配分ガイドライン見直し、ASBJののれん会計議論、FSA・METIのスタートアップ株式流動化議論などだ。問題は素材の有無ではない。これらを別々のタイムラインで個別に動かすか、それとも束として同時に実装する政策ポートフォリオとして設計するか。後者こそが、本稿の示唆する coordinated reform の具体像である。

    そしてLP軸では、すでに動きが始まっている。スタートアップ育成5か年計画(2022〜2027年、10兆円規模)の進行、JICによる継続的なLP出資(直近では2025年10月に Kepple Liquidity 2号へ30億円コミットを決定)、GPIFのオルタナ枠(上限5%)の活用余地など、起点が積極化する方向は確実に進んでいる。起点が動き出していること自体が、束としての改革を起動する触媒になり得る


    おわりに——構造が見えると、議論が変わる

    この階層構造が見えてくると、日本のExit議論の前提が3つの点で書き換わる。

    第一に、診断を変える。「Exitが足りない」「IPOを増やせ」「M&Aが未発達だ」というこれまでの議論は、いずれも下流の症状を並べた診断にとどまる。日本のExit問題は、Exitが不足していることではなく、各Exitの受け手側の資本吸収能力の天井である。その天井を決めているのは、LP構造という上流アンカーだ。症状ではなく構造を見なければ、問題の所在は特定できない。

    第二に、単一レバーだけでは効きにくいと認識する。のれん非償却化、IPO要件の柔軟化、独禁予見性の改善、どれも単独では天井を動かしにくい。4要因がLP構造アンカーの下で同時にロックされているので、1要因を外しても他の3要因が残り、波及は限定的にとどまる。「どのレバーを優先すべきか」だけを問うと、構造が見えにくくなる。

    第三に、問いを変える。問うべきは「どのレバーが最も効くか」ではなく、「どの最小セットを同時に動かすか」だ。LP軸が起点になるが単独では足りず、買い手軸と流動性軸を同時に動かしてはじめて、別のExit手段が形成される。英・仏・印・イスラエルが実証した政策設計の論理である。

    日本のスタートアップExitは、件数ではなく規模で海外と桁違いに小さい。背後にあるのはLP構造という上流アンカーで、これがIPO制度の厳格化・のれん会計20年・買い手供給の限定・セカンダリー不在という4要因のロックとして現れている。4要因が同時にロックされている以上、単一レバーだけでは天井は動きにくい。3軸(LP・買い手・流動性)を束として動かす coordinated reform が、これを押し上げる本筋になる。

    問われているのは「どのレバーを選ぶか」ではない。「どの最小セットを同時に動かすか」だ。Exit改革の本質は、選ぶことではなく、設計することにある。

    そして起点となるLP軸では、すでに動きが始まっている。これが買い手軸・流動性軸の改革と束として接続すれば、M&Aやセカンダリーを含めた市場全体に大きな機会が生まれる可能性がある。日本のExit構造は、難しいが、動かないわけではない。

    References and Further Reading

    出典は本稿で参照した順ではなく、構造モデルのレイヤー別に整理する。各セクション冒頭に、本稿におけるそのレイヤーの役割を示す。

    IPO / 資本市場

    本稿における役割: Chapter 1 の「IPO小型化」と「IPOの金融イベント化」の定量根拠——東証グロース市場時価総額中央値、分布の左寄り性、2025年新上場維持基準の制度化——を提供する。

    M&A / 会計

    本稿における役割: Chapter 2 の4要因複合モデル(制度=のれん会計 → 規制=独禁 → 市場=買い手供給 → 実務=バリュ合意・PMI)の各要因の出典。経産省調査「バリュ合意困難82%」が実務レイヤーの位置づけを支える。

    セカンダリー

    本稿における役割: Chapter 3 の「3層(GP/LP/employee)同時不在」と、米国3層市場(年$152〜156B)との桁差対比の根拠。

    ファンド経済 / LP

    本稿における役割: 本稿の中心概念である「LP構造アンカー」(Chapter 4-1)の定量根拠。日米LP構成の非対称性、ファンドサイズ天井の時系列横ばい、GPIFのオルタナ配分上限など、上流の規定力を検証する。

    国際比較

    本稿における役割: Chapter 4-4 の「4要因完全ロックは日本特有」の検証と、Chapter 5-4 の束設計(Yozma・Mansion House・Tibi II)の実装事例根拠。非米国における代替的なExitの存在を定量で示す。

    Disclaimer

    本稿は、日本のスタートアップExit構造に関する独立した構造モデルの提示であり、公開情報ベースの個人研究として執筆されたものである。特定のファンド・投資家・企業・案件の内部情報には一切依拠していない。

    本稿は投資助言・投資勧誘ではなく、特定の投資判断・投資戦略を推奨するものではない。制度設計・政策議論・リサーチの前提として構造議論に寄与することを目的とし、具体的な投資実務における意思決定は、読者各位の独自判断によるべきものである。

    記載された見解はすべて運営者個人のものであり、いかなる組織の公式見解をも代表しない。

  • なぜスタートアップのグローバル展開は難しいのか

    なぜスタートアップのグローバル展開は難しいのか

    なぜスタートアップのグローバル展開は難しいのか

    Introduction

    日本のスタートアップ政策において「グローバル展開」は繰り返し取り上げられるテーマである。政府の成長戦略にもスタートアップの海外進出支援が盛り込まれ、VCも投資先のグローバルポテンシャルを評価軸に含めるようになっている。

    しかし現実には、日本発のスタートアップでグローバル市場において存在感を持つ企業は極めて少ない。この問題はしばしば「創業者の意志」「英語力」「マインドセット」の問題として語られる。だが、同じく非英語圏でありながら創業時点からグローバル市場を前提に事業を構築する国が複数ある以上、個人の資質だけでは説明がつかない。

    本稿では、グローバル展開の難しさを市場・資本・人材・制度の4つの構造から整理する。精神論ではなく、エコシステムの構造的な特徴として理解することが目的である。

    Landscape

    日本市場の位置づけ

    日本はGDP世界第4位の経済大国であり、国内市場だけで一定規模の事業が成立する。Startup Genomeの調査によれば、東京を中心とする日本のスタートアップエコシステムはアジア太平洋地域で上位に位置するが、グローバル展開の成功率では小国市場に後れを取る。

    日本市場は言語、商慣習、意思決定プロセス、流通構造のいずれにおいても独自性が強い。国内市場に最適化されたプロダクトやオペレーションは、そのまま海外に持ち出せないことが多い。

    海外展開の主要パターン

    日本のスタートアップの海外展開には、大きく2つのパターンがある。

    1つは米国市場への直接参入。TAMの大きさとグローバルVCからの資金調達を視野に入れた戦略だが、米国市場の競争強度は高く、プロダクトの競争力に加えて営業・マーケティング・採用のすべてを現地基準で構築する必要がある。なお、米国は単に巨大な市場であるだけでなく、資本・人材・Exit機会が集中する場として機能している。この集積の引力は強く、展開した企業や人材がそのまま米国エコシステムに組み込まれていく構造がある。「展開先としての米国」と「人材や企業を吸収する場としての米国」は、別の問題として認識しておく必要がある。

    US Gravity Effect

    もう1つは東南アジアを中心とした段階的な展開。地理的な近さと市場成長が理由だが、各国の規制・文化・商慣習の違いは大きく、「アジアだから近い」という前提は必ずしも成立しない。

    小国市場との構造的な違い

    イスラエル、シンガポール、フィンランドといった国のスタートアップは、国内市場が小さいために創業時点からグローバル市場を前提としたプロダクト設計を行う。Startup Nation Centralのデータによれば、イスラエルのスタートアップの多くは創業初期から米国市場を主戦場として設計している。シンガポールのスタートアップは東南アジア全域を初期市場として設定する。いずれも国内市場だけでは事業が成立しないことが、グローバル前提の設計を構造的に促している。

    日本はこの構造と逆の位置にいる。国内で事業が成立するがゆえに、グローバル展開は戦略的な「選択」ではなく、後回しにされやすい「オプション」になる。

    Structural Challenges

    グローバル展開の難しさは、単一の要因ではなく、以下の4つの構造が複合的に作用した結果として理解できる。

    Globalization Barriers Structure

    1. Market Structure: 国内市場の罠

    国内市場が中途半端に大きいことは、グローバル展開にとってむしろ障壁になる。

    年間売上が数十億円規模に達するSaaSや、数百万ユーザーを抱えるコンシューマーサービスが国内で成立する場合、経営チームにとってグローバル展開の優先度は相対的に下がる。投資家からのプレッシャーも、国内成長が続いている間は海外展開よりも国内シェア拡大に向きやすい。

    さらに深刻なのは、国内市場向けに最適化されたProduct-Market Fitが、海外市場ではゼロからの再構築を求められることである。日本の商慣習に合わせた機能設計、日本語前提のUI/UX、日本企業の意思決定プロセスに合わせた営業手法——これらは海外市場では資産ではなく負債になりうる。ローカライズのコストは翻訳にとどまらず、プロダクトの設計思想を見直す必要がある場合、実質的に新規事業の立ち上げに近い。

    2. Capital Structure: 資本供給の構造的ギャップ

    資本構造の課題は、VC→スタートアップの関係だけでなく、その上流にあるLP→VCの資金供給構造から理解する必要がある。

    Capital Flow Structure

    LP構造の課題:日本のVC市場は近年成長しているが、LP(Limited Partner)の構成に構造的な偏りがある。米国では年金基金や大学基金がVCファンドの主要なLPとして機能し、長期のリスク資本を供給している。これに対し、日本では年金基金のオルタナティブ投資への配分比率が低く、大学基金のVC投資への参加も限定的である。LPの層が薄いことは、VCのファンドサイズを構造的に制約する要因になっている。

    ファンドサイズと追加投資余力: LPからの資金供給が限られる結果、国内VCのファンドサイズはグローバルVCと比較して小さくなる。ファンドサイズが小さければ1社あたりの追加投資余力も限られる。グローバル展開には現地法人設立、現地チーム採用、マーケティング投資など、国内事業とは別のコストが大きく発生するが、これを支えるだけの後続資金が確保しにくい。

    グローバルVCとの投資基準の乖離: グローバルVCは投資対象に最初からグローバルなTAMを求める。日本国内でのみ事業が成立しているスタートアップに対して、グローバルVCが積極的に投資するケースは限定的である。国内VCでは規模が足りず、グローバルVCからは投資基準を満たさない——この資本調達のギャップが、展開期のスタートアップにとっての構造的な壁になっている。

    Exit環境の影響: Exit市場には地理的な偏りがある。大型のM&AやIPOは米国市場に集中する傾向があり、日本市場でのExitバリュエーションは相対的に低くなりやすい。東証グロース市場ではIPO審査や上場維持基準の厳格化に関する議論も進んでおり、上場後の株価形成環境とあわせて、VC投資のリターン構造に影響を与えている。Exitの見通しが不透明になれば、VCのリスクテイク意欲にも影響し、グローバル展開のような不確実性の高い投資を後押しする力は弱まる。結果として、グローバル展開によるリターンの上振れがExit構造に十分織り込まれにくく、VCにとってグローバル展開を積極的に支援するインセンティブが構造的に弱くなっている。

    なお、日本には世界有数の金融資産が存在し、政府系ファンドや年金基金が海外VCのLPとして参加する可能性も議論されている。ただし、機関投資家のリスク資産配分の見直しや、VC投資に対する評価手法の整備には時間がかかるため、短期的に資本供給構造が大きく変わるとは限らない。

    3. Talent Structure: グローバル経営の経験値の不足

    グローバル展開を実行するには、創業チームまたは経営層に海外市場での事業経験が求められる。現地の市場理解、顧客との関係構築、パートナーシップの開拓、現地チームのマネジメント。これらは国内での事業経験だけでは得られにくいスキルである。

    加えて、ビジネスにおける信頼構築のメカニズムが市場ごとに異なることも構造的な障壁になっている。日本では長期的な取引関係や紹介ベースの信頼が重視されるのに対し、米国ではプロダクトの実績やメトリクスに基づく評価が優先される傾向がある。この違いは単なる文化差ではなく、営業サイクル、価格交渉、パートナーシップの形成プロセスそのものに影響するため、国内での成功体験がそのまま転用しにくい一因になっている。

    海外拠点の立ち上げでは、現地採用と本社統制のバランスという組織設計の課題が生じる。現地に裁量を渡しすぎればプロダクトの一貫性が失われ、本社の統制が強すぎれば現地市場への適応が遅れる。

    これは個人の能力の問題ではなく、エコシステムとしての経験値の蓄積の問題である。米国やイスラエルでは、グローバル展開を経験した創業者やCxOがエコシステム内を循環し、次の世代に知見を提供する。NFXが公開している分析でも指摘されているように、スタートアップエコシステムの強さはネットワーク効果に依存しており、グローバル経験者の循環はその重要な構成要素である。この循環が十分に形成されていない市場では、各社が同じ試行錯誤を繰り返すことになる。

    4. Policy Structure: 国内最適化されたエコシステム

    日本のスタートアップ支援制度は、その多くが国内市場での事業成長を前提に設計されている。補助金、税制優遇、公的ファンドのいずれも、主な評価基準は国内での雇用創出や売上成長であることが多い。グローバル展開を後押しする制度は存在するが、支援の厚みとしては国内向けが中心である。

    OECDの各国比較データを見ると、イスラエルやシンガポールの政策は初期段階から海外市場へのアクセスを支援する設計になっている。イスラエルのイノベーション庁(Israel Innovation Authority)は海外拠点設立への補助を提供し、シンガポールのEnterprise Singapore(Startup SG)はスタートアップの海外展開を体系的に支援する。これらの国では、国内市場の小ささゆえにグローバル展開が政策の前提に組み込まれている。

    各国の規制差異も展開コストを押し上げる。データ保護規制、金融規制、医療機器規制など、業界によっては国ごとに異なる許認可プロセスが必要になる。法務・税務の整備コストは、アーリーステージのスタートアップにとっては特に負担が大きい。

    より根本的な問題は、エコシステム全体がドメスティックに最適化されていることである。VC、アクセラレーター、メンター、公的支援、顧客ネットワーク——これらが国内で完結する構造の中にいると、グローバル展開に踏み出すこと自体のハードルが構造的に高くなる。

    Implications

    この構造分析は、各ステークホルダーにとって異なる示唆を持つ。

    スタートアップにとっての選択肢は、大きく2つある。国内市場で成長を達成してから展開を計画する段階的アプローチと、創業時点からグローバル市場を前提にプロダクトを設計するBorn Globalアプローチ。どちらが適切かはプロダクトの性質と市場特性に依存する。重要なのは「いつか海外に出る」ではなく、展開のタイミングと方法を事業戦略の初期段階から組み込むことである。展開先の選定自体が以前より不確実性の高い判断になっている以上、単一市場に賭けるのではなく、段階的な検証を組み込む発想がより重要になっている。

    VCにとっては、LP構造の拡充とファンド設計の見直しが問われる。海外VCとの共同投資、クロスボーダーのネットワーク構築、グローバル展開期に対応できるファンドサイズの確保。LP基盤の拡大——特に機関投資家のVC投資への参加拡大——が、この課題の上流にある。

    政策に関しては、グローバル展開を促す直接的な支援だけでなく、構造的な障壁を下げる方向の施策が有効である可能性がある。資本アクセスの改善(機関投資家のオルタナティブ投資への配分促進)、人材流動性の向上(グローバル経験者のエコシステムへの還流)、規制対応コストの軽減。展開を促すよりも、展開を阻む構造に介入する方が実効性が高い場合がある。

    Conclusion

    スタートアップのグローバル展開が難しい理由は、創業者のマインドセットや英語力の問題に還元できない。市場構造、資本構造(LP→VC→スタートアップ)、人材構造、制度・政策構造という4つの層が複合的に作用しており、それぞれが独立した課題であると同時に互いを強化し合う関係にある。

    この構造を理解することは、批判や悲観のためではない。構造を知ることで、どこに介入すれば状況が変わりうるかが見えてくる。スタートアップの戦略設計、VCのファンド設計とLP基盤の拡充、政策の制度設計——それぞれの立場から、構造的な障壁に対する具体的な打ち手を考えることが次のステップになる。


    References and Further Reading

    本稿の議論に関連する参考資料を以下に示す。

    エコシステム調査

    VC・資本市場データ

    各国エコシステム

    Disclaimer

    本稿の見解はすべて筆者個人のものであり、いかなる組織の公式見解でもありません。分析は公開情報に基づいています。