
はじめに:捨てられたのは、席課金ではなかった
2026年、Salesforceの株価は大きく下落したと報じられている。8月中旬の時点で年初来25%超の下落、6月には多年来の安値をつけた。2025年には300ドルを超えていた株価である。市場でこの局面は「SaaSpocalypse」とも呼ばれた。
理由として挙げられているのは、おおむね一つのことだ。AIエージェントが仕事をするようになれば、人数に応じて課金するソフトウェアのモデルは成り立たなくなるのではないか、という懸念である。同社のマーク・ベニオフCEOは2026年8月、こうした見方に対して「ソフトウェアの弱気派は完全に間違っている」と反論したと報じられた。
では、実際に何が起きているのか。素朴に考えれば、確かめるべきことは一つに見える。同社は席課金を捨てたのか。
公表されている価格表と決算資料を追うと、答えは明快だった。捨てていない。 それどころか、席あたりの価格帯はむしろ上に伸びている。
だが、何も変わっていないわけではない。ここ2年の開示を並べると、別のことが起きているのが見えてくる。すなわち、顧客に請求する物差しと、投資家に成長を説明する物差しが、別になりつつある点だ。
本稿では、前者を課金単位、後者を評価単位と呼ぶ。Salesforceが変えたのは課金単位ではなく、評価単位のほうだった。そして両者の間に、換算レートは公表されていない。
本稿は、Salesforceの公表資料をもとに、AI時代に企業が何を開示するようになり、何を言わなくなったかを読む試みの第1回である。
1. どんな会社か——「人数×月額」で世界最大になった会社
Salesforceは企業向けソフトウェアの最大手で、2026年1月期の売上は415億ドル(前年比10%増)。営業やカスタマーサポートの業務を支えるクラウドサービスを、長く一つの形で売ってきた。使う人数×一人あたり月額、いわゆる席課金(per-seat)である。
この形は強い。導入した企業で使う人が増えれば、自動的に売上が増える。しかも契約は積み上がる。直近の四半期末で、今後12か月以内に売上として認識される契約残高は335億ドル、前年同期比14%増と開示されている。
つまり、席課金はこの会社の弱点ではなく、長らく最大の強みだった。だからこそ、それが崩れるという見方は市場に効いた。
2. 市場はどう反応してきたか
注意しておきたいのは、この下落が業績の悪化と同時に起きたわけではないことだ。直近の2026年7月期の四半期では、売上113億ドル(前年同期比11%増)、非GAAPベースの営業利益率は34.1%。通期見通しも引き上げられている。
売上は伸び、利益率は高い水準にある。それでも株価は下げた。市場が織り込もうとしているのは足元の数字ではなく、席課金というモデルそのものの持続性だと報じられている。
以下は株価の予測ではない。ただ、この構図を頭に置いておくと、次に見る開示の変化が読みやすくなる。市場は「席が減る」という話をしている。では会社は、何の話をしているのか。
3. 席課金は、捨てられていない——上に積まれている
公開されている Agentforce の価格表を見ると、課金の単位は一つではない。三つが併存している。
席は残っている。営業・サービス向けのAI機能の追加は1ユーザーあたり月125ドル、業種特化版は150ドル。AI機能を前提にした上位エディションは1ユーザーあたり月550ドルからで、これには年間250万回分の「Flex Credits」が含まれる。
消費が加わった。Flex Credits は10万クレジットあたり500ドルで販売され、AIエージェントの1アクションが20クレジットにあたる。成果に近い単位も一部にある。顧客向けエージェントに限って、1会話あたり2ドルという課金がある。
つまり、席から消費への「移行」は起きていない。起きたのは、席の上に消費が積まれたことである。しかも席あたりの単価は、AI機能を含む上位エディションで月550ドルからと、従来より上の帯に伸びている。
これは、以前にAIの価格モデルを扱った回で書いたことの、大規模な実例になっている。あのとき、価格は「使用量から成果へ」一直線には進まず、最も多いのはハイブリッド型で、それは妥協ではなく責任とリスクを売り手・買い手で分担する合理的な着地点だ、と整理した。世界最大のSaaS企業が実際に採ったのも、その形だった。
だとすると、「席課金を捨てられるか」という問いは、少なくともこの会社については空振りである。では、何が変わったのか。
4. 変わったのは、開示だった
ここからが本題になる。この2年の決算発表を並べると、開示する指標そのものが書き換えられていることがわかる。
新しく生まれた単位
2026年2月の決算で、Salesforceは新しい単位を導入した。その名を Agentic Work Units(AWU、エージェント作業単位) という。AIエージェントが完了させた仕事の量を数える単位で、導入時点の累計24億から、直近の7月期には累計70億、当四半期だけで32億(四半期比97%増)まで伸びている。決算発表の見出しに並ぶ数字として、これは強い。
ここで、多くの解説が取り違えている点がある。AWUは課金の単位ではない。
Salesforce自身の説明では、AWUは「プラットフォーム全体の活動の広がりを捉える指標」とされている。課金に使われるのはFlex Creditsのほうで、AWU1単位あたりの価格も、AWUとFlex Creditsの換算比率も、公表されていない。
つまり、決算で最も伸び率の大きい数字は、値段のついていない数字である。
念のため書いておくと、この単位の発想自体には理がある。Salesforceは、トークン数のような指標は「AIがどれだけ喋ったかを測るだけで、実際に完了した仕事を測っていない」と説明している。これはもっともな指摘だ。処理量ではなく完了した仕事を数えようという方向は、価格の単位が成果へ寄っていくという流れとも整合する。
問題は単位の作り方ではなく、AWUと売上との対応関係を、外部から検証できないことにある。
言わなくなった指標
新しく開示された指標と同様に、開示されなくなった指標にも着目したい。
以前はトークンの処理量やAgentforceの取引件数も開示されていた。2026年2月期にはトークン19兆件、取引件数29,000件超といった数字が並んでいる。だが直近の7月期の発表には、どちらも出てこない。いまはAWUとARRが前面に出ている。
見出し指標そのものも書き換わった。2025年2月期は「Data Cloud & AI ARR」という名前で9億ドル(前年比120%増)。2026年2月期に「Agentforce and Data 360 ARR」と改称され、29億ドル超になった。この29億ドルには、2025年11月に買収が完了したInformaticaのクラウドARR11億ドルが含まれており、当時はその内訳が明記されていた。ところが直近の7月期では、この指標は39億ドル(前年比210%増)と発表され、内訳は示されていない。
もちろん、買収だけで伸びているわけではない。同社は既存顧客の拡張が受注の60%超を占めることや、買収事業の売上寄与も別途開示している。
それでも、改称と再構成をまたいで「前年比210%増」という一つの成長率が提示されているという事実は残る。この数字を1年前の9億ドルと比べたくなるが、比べているものは同じではない。
三つの方向が同時に起きている
整理すると、Salesforceの開示には三つの変化がある。
第一は、取引件数からARRへ、より収益に近い指標へ移っていることだ。Agentforceの取引件数よりもARRを前面に出すようになった。これは、利用実績だけでなく、実際にどれだけ収益につながっているかを示そうとする変化と読める。
第二はその一方で、AWUという新しい利用指標を成長の中心に置き始めたことである。AWUはAIエージェントがどれだけ仕事をしたかを示すが、それ自体に価格はついていない。収益に近いARRを重視しながら、同時に売上との換算関係が見えない利用量も強調している。
第三は、指標の定義そのものが変わっていることだ。「Data Cloud & AI ARR」は「Agentforce and Data 360 ARR」へ改称され、買収したInformaticaの事業も含むようになった。結果として、同じ名前の成長率を時系列で単純比較することが難しくなっている。
つまり、Salesforceの開示は一方向に進んでいるわけではない。収益化を示す指標を強める一方で、新しい利用指標を加え、さらに既存指標の範囲も広げている。
これは「開示が良くなった/悪くなった」という単純な話ではない。AIという新しい事業領域について、何をもって成長と呼び、何を投資家に見せるべきか、その物差し自体がまだ固まりきっていないということである。
5. 何が言えるか
ここまでの数字から、まず一つ明確に言えることがある。AIの利用量が増えることと、それが売上に変わることは同じではない。
Salesforceでは、AIエージェントが完了した仕事を示すAWUが四半期比97%増、AI関連ARRが前年比210%増と、どちらも大きく伸びている。ただし、この二つを直接結びつけることはできない。単位も集計期間も異なり、AWUが増えると売上がいくら増えるのかという換算関係も公表されていないからだ。
ここに、今回の開示を読むうえで最も重要なポイントがある。Salesforceでは、顧客に料金を請求するための「課金単位」と、AI事業の成長を説明するための「評価単位」が分かれつつある。
課金単位は、席数、Flex Credits、会話数など、実際に顧客が対価を支払う物差しである。一方、AWUはAIエージェントがどれだけ仕事をしたかを示す物差しだ。AWUが伸びれば、AIの利用が広がっていることはわかる。しかし、それだけでは売上や利益がどれだけ増えるのかまではわからない。
これはSalesforceに限った話ではない。今後、AI企業からは「エージェント実行回数」「AI処理件数」「自動化した時間」「タスク完了数」といった、新しい指標が次々に出てくるだろう。そのとき重要なのは、数字の伸び率だけを見るのではなく、その指標が事業の収益にどうつながっているかを見ることである。
具体的には、三つを確認すればよい。
- その数字は、顧客にとっての価値を表しているか
- その数字に、実際の価格がついているか
- その数字の増加が、売上や粗利の増加にどうつながるか
もちろん、新しく生まれた指標がこの三つをすべて満たしていないからといって、意味がないわけではない。新しい市場では、事業モデルや価格体系が固まる前に、利用の広がりを示す指標が必要になることもある。
重要なのは、「利用が伸びている」という事実と、「事業として価値が生まれている」という事実を分けて読むことだ。
以前AIバブルを扱った回では、期待が実態へ変換される途中に「段差」が生まれると書いた。今回のSalesforceで興味深いのは、その段差の大きさを測るための換算関係自体が、まだ外からは見えないことである。
おわりに:単位そのものを読む
新しい技術が来るとき、企業は新しい指標を作る。それ自体は自然なことで、むしろ何も変えないほうが不自然だろう。既存の指標がその技術の価値を捉えられないなら、新しい単位が要る。
ただ、新しい単位が生まれた直後には、必ず一つの期間がある。その単位がまだ値段と結びついていない期間である。新しい指標は過去との比較期間が短く、成長率だけを見れば大きな数字になりやすい。だからこそ重要なのは、その数字の伸びそのものではなく、売上や利益との接続である。
AI時代の開示を見るとき、重要なのは数字の大きさではない。その数字が何を数え、そこに価格がつき、売上や利益へどう変換されるかである。
新しく何を開示したか。そして、何を言わなくなったか。
これからの企業分析では、「数字」だけでなく「単位」そのものを読む必要がある。次回以降も、1社ずつ、同じ問いで読んでいきたい。
Disclaimer
本稿は、公表資料および公開報道にもとづく独立した分析であり、特定の組織の公式見解ではありません。
本稿は特定の証券の売買を推奨するものではなく、投資助言・投資勧誘ではありません。 将来の株価、企業価値の割高・割安、投資判断に関する見解を示すものではなく、記載した株価の推移は過去の報道の紹介にとどまります。
本稿の記述は、決算発表資料、SECへの提出書類、同社が公開している価格表および製品説明、ならびに公開報道の範囲に限られます。内部情報には一切依拠していません。開示内容の変化から企業の意図を推定することはしていません。
筆者は JAPAN AI 株式会社および株式会社ジーニーに所属しますが、本稿は Alpha Beyond Frontier における筆者個人の独立した分析であり、所属各社の公式見解を示すものではありません。
記載した数値および事実は、各出典の公表時点のものです。
References
- Salesforce, 2027年度 第2四半期 決算発表(2026年8月26日). https://www.salesforce.com/news/press-releases/2026/08/26/fy27-q2-earnings/
- Salesforce, 2027年度 第1四半期 決算発表(Form 8-K Exhibit 99.1・SEC). https://www.sec.gov/Archives/edgar/data/0001108524/000110852426000125/crm-q1fy27xexhibit991.htm
- Salesforce, 2026年度 第4四半期・通期 決算発表(2026年2月25日). https://www.salesforce.com/news/press-releases/2026/02/25/fy26-q4-earnings/
- Salesforce, 2025年度 第4四半期・通期 決算発表(2025年2月26日). https://www.salesforce.com/news/press-releases/2025/02/26/fy25-q4-earnings/
- Salesforce, Agentforce 価格表(2026年9月時点). https://www.salesforce.com/agentforce/pricing/
- Salesforce, “What are Agentic Work Units (AWU)?”. https://www.salesforce.com/agentforce/agentic-work-units/
- Salesforce, Informatica の買収完了(2025年11月18日). https://www.salesforce.com/news/press-releases/2025/11/18/salesforce-completes-acquisition-of-informatica/
- The Motley Fool, “Marc Benioff Says Wall Street’s Fears That AI Will Kill Salesforce Are ‘Dead Wrong’”(2026年8月21日). https://www.fool.com/investing/2026/08/21/marc-benioff-says-wall-streets-fears-that-ai-will/
