月: 2026年6月

  • そのAIの売上は、本当に定着しているのか——AI企業の価値は『剥がれにくい収益』で決まる

    そのAIの売上は、本当に定着しているのか——AI企業の価値は『剥がれにくい収益』で決まる

    そのAIの売上は、本当に定着しているのか

    はじめに:AI企業の売上は、見た目ほど同じではない

    AI企業の評価額を見ると、しばしば「バブルではないか」と言われる。Databricks は2026年2月の調達で評価額が約1,340億ドルに達し、年率換算の売上は54億ドルを超えた。数字は壮観だが、AI企業全体については、こうした成長がどこまで持続的な収益なのかを疑う声も絶えない。

    だが、本当に問うべきは「評価額が高いか低いか」ではない。市場が何を価値として見ていて、何をまだ十分に測れていないかである。AI投資をめぐる議論も、最近は単純な強気・弱気の二択から離れつつある。ゴールドマン・サックスは「まだバブルではない」としつつ将来便益の過大評価を警告し、IMFは「局所的な過熱」という表現を使う。技術革命は本物だが、その上に乗る金融的な評価には歪みが混じりうる——この温度感がいまの相場観に近い。

    そして、この問いは投資家だけのものではない。AIツールを導入する企業、AIプロダクトを売る事業会社、AI機能を自社サービスに組み込む経営者にとっても、問いは同じである。あなたの会社が先月入れたAIツールは、本当に業務に定着しているのか。それとも、話題性で導入しただけで、半年後には解約されるものなのか。見るべきは「AIを使っているか」ではなく、そのAIが顧客や自社の業務にどれだけ深く組み込まれているか——言い換えれば、その売上がどれだけ剥がれにくいかである。

    そうであれば、論点は評価額そのものではなく、評価に使う物差しに移る。資本市場はAI企業を、どの言語で測っているのか。そして、その言語はAIにそのまま通用するのか。

    1. SaaSの物差しは、AIにそのまま効くのか

    ソフトウェア企業は長らく、共通の言語で評価されてきた。ARR(年間経常収益)、売上成長率、NRR、粗利率、Rule of 40、そしてそれらに基づく売上マルチプル(EV/ARR)。なかでもNRRは「売上継続率」とも呼ばれ、既存顧客からの売上が翌年にどれだけ残り、増えたかを見る指標である。100%を超えていれば、解約や縮小を上回って、既存顧客内で利用が広がっていることを意味する。投資家どうしが企業を比較するには、こうした共通の物差しが要る。

    AI企業も、現実にはこの言語で説明されている。市場はAI企業を別枠ではなく同じ物差しに乗せている。巨大なAIラボから、創業数年のアプリケーション企業まで、語られる言葉はARRであり、売上成長率であり、売上マルチプルだ。ベッセマーの Cloud 100(2025年)では、AI企業の平均売上マルチプルは約24倍で、非AI企業の約19倍を上回る。一見すると「AIプレミアム」が存在するように見える。

    しかしベッセマー自身が釘を刺している。プレミアムの源泉は「AIだから」ではなく、カテゴリ支配・予測可能な売上拡大・効率性であり、AIは成長の時間軸を圧縮するが、それ自体が堀(moat)を作るわけではない、と。実際、このマルチプル差はAIが当たり前になるにつれて縮みつつある。

    ここで違和感が浮かぶ。同じARRでも、中身が違うのではないか。単なるAPI利用料なのか、試験導入(PoC)の一時的な売上なのか、それとも顧客の業務に深く入り込んだ継続収益なのか。同じ「1億ドルのARR」でも、価値の質はまったく異なる。

    2. ARRが、もう一枚岩ではない

    この違和感を、最初に概念化したのは投資家側だった。アルティメーターのジャミン・ボールは、AI企業の収益の一部を ERR(Experimental Runrate Revenue=実験的ランレート収益) と呼び、従来のARRと区別した。AI時代には、ARRに見えるものの中に、実験予算・一時的な利用・ベンダー探索的な支出が混じる。それらは従来のARRほど予測可能でも安定的でもない、という問題提起である。a16z のジェニファー・リも「すべてのARRが同じ質ではない」と述べ、AI企業のARRを額面通りに読むことへの警戒は、すでに共通語彙になりつつある。

    安く入るAIは、安く抜ける

    データもこれを裏づける。Growth Unhinged と ChartMogul の2025年の分析(約3,500社をAIネイティブ/SaaSに分類)によれば、AIネイティブ企業のNRRの中央値は約48%で、B2B SaaSの約82%を大きく下回る。さらに重要なのは、その価格帯による二極化だ。月額50ドル未満の層では、解約・縮小の影響が大きく、NRRが約32%まで落ち込む。一方、月額250ドル超の層ではNRR約85%と、SaaS並みの水準に戻る。ある投資家は、調達資料に並んだ顧客ロゴに片端から連絡を取ったところ、その大半がすでに利用を止めていた、という逸話を紹介している。

    要するに、安く・簡単に買えるAIは、安く・簡単に解約される。月額数十ドルで気軽に試せるツールほど、話題が一巡すれば静かに解約される。逆に、月額数百ドル以上を払い続けてもらえる関係は、すでに業務の一部になっている。同じ「経常収益」に見えても、その粘りはまるで違う。

    つまり、AI時代に起きているのは「ARRが無意味になった」ことではない。ARRという同じ言葉の中に、実験的で剥がれやすい収益と、業務に埋め込まれて残る収益が混在し始めたことである。

    本稿が注目したいのは、ERRの裏側にある「残る収益」のほうだ。本稿ではこれを、便宜的に Embedded ARR、つまり「業務に埋め込まれた、剥がれにくい収益」と呼ぶ。問うべきはARRの大きさではなく、そのARRがどれだけ顧客の業務・データ・意思決定フローに埋め込まれているか、である。

    念のため付け加えておくと、Embedded ARR という言葉自体は、本稿での便宜的な呼び方にすぎない。重要なのは新しいKPIの名前を増やすことではなく、AI企業のARRを、実験的に積み上がったものと、業務に埋め込まれて残るものに分けて読むことである。スローガンにするなら、「ARRは死んだ」ではなく「ARRを分解せよ」だ。

    3. Embedded ARR をどう読むか:3つの差分

    では、ARRの「剥がれにくさ」は何で見分けるのか。本稿は3つの観点を置く。

    第一に、Durability(持続)。契約が更新されるだけでなく、実験予算が本番予算に移っているか。一度きりのPoC枠から、毎年の運用コストとして組み込まれた支出へと性質が変わっているか。更新コホートやGRRに表れる。

    第二に、Expansion(拡張)。導入が1部署・1用途にとどまるのか、複数部署・複数ワークフローへ広がるのか。Databricks が2026年2月時点でNRR140%超、1,000万ドル以上を支払う顧客を70社超抱えると公表しているように、顧客内で利用が面的に広がる構造は、収益の剥がれにくさに直結する。

    第三に、Model-substitution resistance(モデル代替耐性)。基盤モデルが乗り換えられ、推論コストが下がっても、顧客接点・業務データ・運用ノウハウが手元に残るか。これは前稿で論じた「価値はモデルではなく、業務への埋め込みに宿る」という視点の、評価側への翻訳にあたる。モデルの差別化ではなく、モデルが変わっても残るものを評価する、という発想である。

    問題は、資本市場がこの3つを直接は観測できないことだ。だから市場は、代理変数を読む。NRRが高ければ、顧客内で利用が広がっている可能性がある。粗利率が改善していれば、推論原価を吸収できるプロダクト構造を持つ可能性がある。エンタープライズ比率や顧客ロゴの質が高ければ、ミッションクリティカルな領域に入り込んでいる可能性がある。逆にCapexや推論コストが重ければ、成長しても利益が残りにくい可能性がある。

    いずれも「可能性」であって、確定した観測ではない。代理変数は本体ではない。だが、ARRを一枚岩として見るより、これらの代理変数を通じて質を読み分けるほうが、AI企業の価値の所在にはるかに近づける

    図1: Experimental ARR(剥がれやすい収益)と Embedded ARR(剥がれにくい収益)の対比。持続の観点では、実験予算で試して終われば消える収益に対し、本番予算として毎年の運用費に組み込まれる収益。拡張の観点では、1部署・1用途にとどまる利用に対し、複数部署・複数業務へ広がる利用。モデル代替耐性の観点では、モデルが変わると一緒に剥がれる収益に対し、モデルが変わっても顧客接点・データが残る収益。現れる指標としては、低NRR・短い更新(月50ドル未満で約32%)に対し、高NRR・継続拡大(月250ドル超で約85%)。ARRの大きさより、剥がれにくさを読む。

    4. 三つの層:価値の剥がれにくさは、どこで決まるか

    AI企業をひとくくりに語ると、この読み分けはかえって難しくなる。スタックの層によって、収益の質も評価のされ方も大きく異なるからだ。便宜的に三層に分けてみる。

    Layer 1:Model / Compute(モデル・計算基盤)。モデルそのもの、GPU、推論基盤。売上ポテンシャルは巨大だが、価格競争とCapex負担に強く晒される。2026年5月に上場した Cerebras は、第1四半期に売上を前年比でほぼ倍増させながら、通期の調整後粗利率見通しが第1四半期の47%から38〜41%へ低下することを嫌気され、決算後に株価が時間外で約10%下落した。成長していても、粗利構造に不安があれば市場は容赦なく反応する。

    Layer 2:Data / Workflow Infrastructure(データ・業務基盤)。データ基盤や運用基盤の層は、モデルが入れ替わっても残りやすい。顧客のデータと業務がそこに蓄積され、乗り換えコストが高くなるからだ。Databricks の評価額1,340億ドルは、年率換算売上約54億ドルに対して、単純計算でおよそ25倍にあたる。同じデータ領域でも Snowflake の売上マルチプルはこれを大きく下回る水準とされる。両者の差をすべてAIだけで説明することはできないが、少なくとも市場が「AI時代のデータ・業務基盤」としての位置取りを大きく評価していることは読み取れる。

    Layer 3:Embedded Vertical AI(業務特化型AI)。一見すると市場規模が小さく見える層だが、特定業界の業務に深く入り込めば、解約耐性と横展開余地は大きい。たとえば、建設現場の見積・工程管理、医療機関の文書作成、製造業の品質管理、自治体の申請処理、法務部門の契約レビューのように、特定業務のデータ・承認フロー・例外処理に入り込むAIである。汎用チャットボットの一般利用とは、収益の粘りが違う。垂直特化型SaaSのうちNRRが115%を超える企業は、水平型に対して25〜30%の評価プレミアムを得るという集計もある。TAMが大きく見える層ほど価格競争に晒され、TAMが小さく見える層ほど、剥がれにくい収益を積みやすい場合がある——これは直感に反するが、収益の質という観点からは筋が通る。

    ただし、ここで言い切りは避けたい。第一に、Layer 1とLayer 2を一緒くたにはできない。GPU・電力・データセンターといった「つるはしとシャベル」は、むしろ商品化と価格競争のリスク側にある。第二に、「インフラ層なら安全」とも限らない。ゴールドマンの集計では、GPUや電力、データセンターなどのAIインフラ関連株の年初来上昇率が約44%に対し、2年先の利益予想の伸びは約9%にとどまる。設備投資の伸びが鈍れば、これらが一斉に評価を切り下げられる可能性は残る。光ファイバー(2000年)やクラウドの過剰供給が辿った道だ。第三に、Layer 3の優位も無条件ではない。差別化が同じ基盤モデル上の機能(feature)にすぎなければ一時的で、独自データに支えられて初めて持続する。実際、買い手の8割が「AIによる商品化」をソフトウェア評価の最大リスクに挙げるという調査もある。

    図2: AI企業の三つの層と、収益の剥がれにくさ。Model/Compute層(モデル・計算基盤)は価格競争とCapex負担に強く晒され、粗利低下で評価が急落しやすい(例:Cerebras)。Data/Workflow層(データ・業務基盤)は囲い込みで乗り換えコストが高く、モデルが変わっても残りやすい(例:Databricks)。Embedded Vertical AI層(業務特化型AI)は機能だけなら商品化リスクがあるが、独自データと業務への埋め込みがあれば条件次第で剥がれにくい。TAMの大きさと、剥がれにくさは逆を向くことがある。

    おわりに:ARRの大きさから、ARRの剥がれにくさへ

    AI企業の粗利率をめぐる議論も、この「読み分け」を後押しする。a16z が2020年に指摘した「AI企業の粗利はSaaSより薄い」という見立ては、当時はLLM普及前のものだったが、いまも部分的に当たっている。ICONIQの2026年の調査では、AIプロダクトの粗利率の中央値は約52%で、成熟SaaSの70〜80%には届かない。推論コストが重く、AIプロダクトの総コストの2割超を占めるとされるためだ。一方で、推論コストは年単位で大きく下がり続けており(いわゆるLLMflation)、粗利は改善の途上にある。つまり粗利率もまた、一枚岩のARRと同じく、層とプロダクト構造によって大きく割れる指標である。

    資本市場は、AI企業の価値をまだ直接は測れない。だからARR、成長率、粗利率、NRR、Capex負担といった、SaaS時代から続く代理指標で測っている。それ自体は誤りではない。誤りがあるとすれば、ARRを一枚岩として、その大きさだけを読むことだ。

    実務に引き寄せれば、AI企業やAIプロダクトを見るときに問うべきことは、意外にシンプルである。第一に、その売上は実験予算なのか、本番予算なのか。第二に、その利用は一部署に閉じているのか、複数業務に広がっているのか。第三に、明日、別のモデルに置き換わっても、顧客接点・業務データ・運用ノウハウは残るのか。この3つに答えられないARRは、見た目ほど強くない。これは自社のAI導入を点検するときにも、AIプロダクトを売る側が自分の収益を見るときにも、そのまま使える。

    AI時代、ARRは死んでいない。ただし、ARRはもう一枚岩ではない。実験的に積み上がったARRと、業務に埋め込まれて残るARRを分けて読めるかどうか——これは投資家だけの話ではなく、AIを買う側、売る側、組み込む側のすべてに関わる。市場はまだ古い物差しを使っている。だが、その物差しの読み方を変えれば、AI企業の本質はかなりの程度まで見えてくる。見るべきは「AIかどうか」ではなく、そのAIがどれだけ業務から剥がれにくいか。問われているのは新しい指標ではなく、既存の指標を質で分解して読む規律のほうである。

    References

    なお本稿は、公開資料・VCのレポート・各社の発表・関連報道をもとに、AI企業の価値評価について筆者なりの補助線を整理したものである。特定企業の非公開情報に基づくものではなく、すべて独立した一般的な構造分析である。評価額や財務数値は公表時点のものであり、その後の変動や前提の違いは反映していない。

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  • 生成AIはモデル単体では差別化にならない——AI企業の本当の堀はどこにあるのか

    生成AIはモデル単体では差別化にならない——AI企業の本当の堀はどこにあるのか

    生成AIはモデル単体では差別化にならない

    はじめに:モデルが横並びになる世界で、価値はどこに残るのか

    新しいAIプロダクトを立ち上げるとき、最初に悩むのは「どのモデルを使うか」かもしれない。GPT系か、Claude系か、それともオープンモデルを自前で動かすか——。だが、この選択の重みは、ここ1〜2年で急速に小さくなっている。少なくとも、モデル単体の性能差だけで長く差別化することは難しくなってきた。

    実際、基盤モデルの性能差は急速に縮まり、推論のコストは大きく下がり、オープンウェイト(モデルの重みが公開され、自前で動かせる)のモデルも商用利用に耐える水準へ達してきた。Stanford HAI の AI Index 2025 や研究機関 Epoch AI の分析も、上位モデル間の性能差の縮小と、同じ仕事をさせるコストの継続的な低下を裏づけている。要するに、どのモデルを選ぶか自体が、もはや差別化になりにくくなっているのだ。

    だとすれば、問いはこう変わる。モデルそのものが横並びに近づく世界で、生成AI企業の価値はどこに残るのか。そして——本稿がより重視するのはこちらだが——その価値のうち、投資家や買い手は何に値段をつけるのか(資本市場は何を「価値」として認識するのか)

    先に見立てを述べておく。生成AI時代の企業価値は、モデルではなく、非公開データ・業務フロー・暗黙知・実装力に宿る。いずれも「業務に深く埋め込まれて、外に持ち出せないもの」である。そして資本がそれを価値として評価できるかどうかは、その埋め込みが「どれだけ深く、どれだけ再現困難か」にかかっている。

    1. モデルは「持ち出せる」、価値の源泉は「持ち出せない」

    モデルは、誰でも同じものを使える。APIを叩けば同じ出力が得られ、オープンモデルならダウンロードもできる。つまりモデルは原理的に「持ち出せる(portable)」資産であり、持ち出せるものはコピーされ、コモディティ化していく。著名アナリストの Benedict Evans も、基盤モデルは持続的な差別化を欠く「コモディティ的な入力」になりつつあり、価値は流通やワークフローへの統合、アプリケーション層へ移ると論じている。

    ここで一つ注意したい。これは「モデル層に価値が一切残らない」という意味ではない。a16z の Martin Casado らは2023年の時点で、生成AIのスタックそのものに自明な防御性はないとしつつ、スケール・流通・ブランドといった伝統的な堀で企業価値は築けると論じていた。論点は「モデルが無価値になる」ことではなく、「差別化の重心がモデルの外側へ移る」ことにある。

    では、その外側とは何か。本稿はそれを一つの概念で束ねたい——業務に埋め込まれて持ち出せない資産(embedded assets)である。非公開データ、業務フロー、暗黙知、実装力。これらは別々の要素に見えるが、共通点は「特定の顧客の業務のなかに深く埋め込まれていて、外から観察できず、移転に時間がかかる」という一点だ。モデルが portable なら、価値の源泉は embedded である。この対比が本稿の軸になる。

    図1: 持ち出せるモデル(portable)と、持ち出せない埋め込み資産(embedded)の対比。モデルはAPIやオープンモデルで誰でも同じものを入手でき、コピーすれば即座に再現され、単体では差別化になりにくい。一方で価値の源泉である非公開データ・業務フロー・暗黙知・実装力は、特定顧客の業務のなかにしか存在せず、外から見えず移転に時間がかかり、深く埋め込むほど堀になる。差がつくのは、モデルではなく業務への埋め込みである

    2. 埋め込み資産はどう積み上がるのか——データ・暗黙知・実装力

    埋め込み資産の中身を、もう少し具体的に見ていく。

    第一に、非公開データと暗黙知。ただし「独自データを持っていれば堀になる」という単純な話ではない。実際、公開された議論には両論がある。一方には「proprietary data こそが唯一持続する優位だ」という見方があり、他方には「基盤モデルは公開データで作られており、データ単独では複製もされ陳腐化もする」という反論がある。どちらも一理ある。重要なのは、データが業務フロー・評価基準・実装人材・顧客内での展開と結びついたときに、はじめて堀になるという点だ。生のデータそのものではなく、「誰がいつ何を正解と判断するか」という暗黙知を、業務の文脈のなかで構造化し、運用に乗せていく工程——そこに価値が宿る。この工程は外から見えず、時間がかかり、模倣が難しい。

    第二に、実装力。ここで近年あらためて注目されているのが、Forward Deployed Engineer(FDE、顧客の現場に深く入り込んで実装する技術者)という役割である。これはデータ解析企業 Palantir が確立・普及させた職種で、エンジニアが顧客の業務現場に深く入り込み、一社のために多くの機能を実装し、定着させる。Palantir 自身の説明でも、汎用プロダクトを多くの顧客へ届ける通常の開発者とは逆に、FDE は一顧客に張り付いて業務に食い込む役割だとされる。

    興味深いのは、生成AIの最前線がこのモデルに回帰していることだ。OpenAI は2026年5月、企業導入を専門に担う「Deployment Company」の設立を公表し(同社の発表によれば、数十億ドル規模の初期資本と、約150名の FDE・導入スペシャリストを擁するという)、Anthropic も Forward Deployed Engineer を公式に募集している。モデルがコモディティ化するほど、それを顧客の業務に「埋め込んで動かす」力が希少になる、という構図である。

    ここに一つの逆説がある。FDE的な実装は、一見すると「スケールしないサービス業」に見える。一社ごとに人を張り付けるのだから、ソフトウェアの高い限界利益とは相容れない。だが a16z が指摘するように、初期にマージンを犠牲にして業務へ深く埋め込むことが、結果として顧客が離れられない関係——強い堀——を生むことがある。スケールしないように見える作業こそが、最も模倣困難な資産になりうる。もっとも、これは現時点で実証された因果ではなく、サービス事業は低マージンでスケールしにくいという従来の反論も併存する、戦略的な仮説として扱うのが正確だろう。

    3. すべての Vertical AI が勝つわけではない

    埋め込み資産が価値を生むのなら、それを最も積み上げやすいのは、特定業界に特化した Vertical AI である。a16z、Bessemer、Menlo Ventures といった著名VCは近年、AI の価値が汎用モデルそのものではなく、特定業界のワークフロー・固有データ・規制要件への深い埋め込みへ移ると論じている。これは「Vertical SaaS は横断型より深い堀を持つ」という旧来の議論の、AI 時代への延長線上にある。

    ただし、ここで楽観に振れてはいけない。同じVCのなかからも、強い反対論が出ている。Foundation Capital や Theory Ventures は、基盤モデルの提供者が API の利用データから成功しているアプリを観測し、自らスタックを上がってアプリ層を飲み込んでくる「飲み込みリスク」を警告する。汎用的な知識労働をなぞるだけの薄いアプリは、モデル提供者の機能拡張に最も飲み込まれやすい。

    重要なのは、これらの論者が「Vertical AI は安全だ」とは言っていないことだ。彼らが描いているのは線引きである。すべての Vertical AI が勝つわけではない。勝ち筋があるのは、判断集約的で、顧客固有のデータが相互作用のなかで蓄積し、業務フローに深く埋め込まれる領域である。ここでいう判断集約的な業務とは、単に作業を自動化するだけでなく、例外処理、承認、責任分界、顧客ごとの判断基準が絡む業務である。逆に、定型的でルールベースの業務や、汎用的な知識をなぞるだけの領域では、固有の学習がほとんど蓄積されず、堀にならない。

    つまり Vertical AI の本質は、「業界を絞ること」自体ではない。「絞った業界のなかで、モデル提供者が再現できない埋め込み資産をどれだけ積めるか」にある。市場規模がどこまで広がるか、どの業界が最初に立ち上がるかは、上場実績の乏しい現時点では検証されていない仮説として扱うべきだが、構造としての勝ち筋の在りかは、かなりはっきりしている。

    4. 売上だけでは測れない——AI企業の価値をどう読むか

    ここからが本稿の芯である。埋め込み資産が価値の所在だとして、では資本市場はそれをどう評価するのか。

    従来のSaaSは、ARR(年間経常収益)とその成長率、そして顧客の定着を測る NRR(Net Revenue Retention=既存顧客から得る収益が前年比でどれだけ維持・拡大したか)を中心に評価されてきた。だが生成AI企業を同じ物差しで測ると、見誤る。

    整理すると、生成AI企業を見るときは、売上がどれだけ伸びているかだけでなく、その売上が剥がれにくいか(定着)、推論の原価を食いつぶさないか(粗利)、そして一社ごとの作り込みが再利用できる形になっているか(製品化)——この三つを合わせて見る必要がある。順に見ていこう。

    第一に、ARRの質、つまり売上が剥がれにくいかどうかが違う。Kyle Poyar の集計(2025年)によれば、ARR が25万ドルを超える企業で、従来型 B2B SaaS の NRR が中央値で80%台前半であるのに対し、AIネイティブ企業では、とくに低単価で実験的に使われている層の顧客の定着(リテンション)がそれを大きく下回る。逆に、単価が高く本格的な業務利用に根ざした層では、定着は従来SaaSに近い水準まで上がる。生成AIは導入が速い分、同じ「AIネイティブ」のなかでも、実験的な支出と本格的な業務利用が混在しやすいということだ。同じ「1億円のARR」でも、業務に深く埋め込まれた剥がれにくい収益なのか、試しに使われているだけの収益なのかで、中身がまるで違う。

    第二に、粗利の構造が違う。これはすでに業界で確立しつつある視点だが、生成AIアプリは推論コスト——LLM の API やコンピュート——が売上原価(COGS)に乗る。生成AI以前から、AI/ML企業は従来SaaSより粗利が低くなりやすいという論点は指摘されていた。a16z は2020年の時点で、AI企業の粗利をおおむね50〜60%程度、従来SaaSを60〜80%超と観察していた。本稿ではこれを「LLM原価後粗利」、すなわち推論原価を引いた後に残る粗利として捉えたい。ARR が同じでも、原価を引いた後に何が残るかは大きく異なる。ただし Bain Capital Ventures が「粗利だけを見るな」と論じるように、推論単価は時間とともに下がり粗利は改善しうるため、ある時点の粗利を過度に重視するのも誤りである。

    この二つを踏まえると、埋め込みの深さを読むための補助線がほしくなる。本稿では、既存の指標に連なる二つの視点を提案したい。

    一つは「顧客内展開率」。これは SaaS で確立した NRR や expansion rate——一顧客のなかで利用がどれだけ広がるか——に連なる考え方を、Enterprise AI 向けに読み替えたものだ。一社のなかで部署を超えて使われ、業務に食い込んでいくほど、その収益は剥がれにくく、埋め込みが深いことの証になる。

    もう一つは「テンプレート再利用率」。こちらは業界標準の指標ではなく、ABF が提案する作業仮説に近い。FDE的な実装は、当初こそ一社ごとの作り込みだが、その実装をどれだけ型(テンプレート)として再利用し、次の顧客へ展開できているか——サービスがプロダクトへ転化できているかを測る目安になる。再利用率が高ければ、低マージンの実装が、将来スケールする資産へ変わりつつあるサインと読める。

    これら三つは、どれも「埋め込み資産が、どれだけ製品化され、深まり、剥がれにくくなっているか」を別々の角度から照らす。資本が生成AI企業を評価するとは、突き詰めればこの埋め込みの深さと再現困難さを読むことにほかならない。

    図2: AI企業の価値を読む評価のレンズ。従来の中心であるARRは売上の大きさと成長を測るが、深さや剥がれにくさは映らない。①LLM原価後粗利は推論原価を引いた後に残る粗利、②顧客内展開率は一顧客のなかでの利用の広がり、③テンプレート再利用率は実装を型として再利用できた度合いを示し、それぞれ収益の質・業務への食い込み・サービスからプロダクトへのスケール性を映す。ARRの大きさより、埋め込みの深さを読む

    5. M&A——評価対象は技術から人材・データ・顧客基盤へ広がる

    埋め込み資産という視点は、M&Aの読み方も変える。

    2024年以降、Microsoft と Inflection、Amazon と Adept、Google と Character.AI のように、大手テックがスタートアップの中核チームを雇用しつつ、技術を非排他的にライセンスする——完全買収ではない「ライセンス+人材獲得」型のディールが、一つの類型として相次いで報じられた(いずれも報道ベース。なお Meta と Scale AI のように、少数出資と一部人材の移籍という、構造の異なる事例もある)。

    M&Aの実務側からも、価値の所在が動いていることがうかがえる。大手法律事務所 Skadden は2026年の解説で、AI企業の買収では価値の中核が「技術そのものよりも、鍵となる人材の確保」にある類型が現れていると指摘する。デューデリジェンスの重点も、モデルのベンチマーク上の性能以上に、学習データの権利と出所がどれだけ追跡可能か、中核ノウハウが少数の人材に集中していないか、そのモデルが実環境で性能を再現できるかへ移っているという。

    ただし、ここでも言い切りは避けたい。Databricks による MosaicML 買収のように、技術やプラットフォーム自体を主目的とする買収も実在する。実際には、技術と人材・実装力は分かちがたく結びついている。正確に言えばこうだ——AI企業のM&Aでは、技術そのものに加えて、データ、顧客基盤、業務知、そして実装済みのワークフローが評価対象になる。買い手が取りに来るのは、モデルそのものではなく、その企業が顧客の業務へ埋め込んできたものの総体である。

    6. 日本の Enterprise AI 企業は、海外の資本にどう見えるか

    最後に、この視点を日本に引きつけてみる。

    日本企業向けに深く入り込む Enterprise AI 企業が価値を作るとすれば、その源泉は日本市場の業務・規制・商習慣に特化したデータと顧客基盤になりやすい。これは前述の議論からすれば、まさに「埋め込み資産」である。だが、その価値は、誰が評価するかによって見え方が大きく変わる。ここに、見落とされがちな一つの逆転がある——同じ「ローカルな深さ」が、海外の投資家には割り引かれ、戦略的な買い手には価値として認識されるのだ。

    海外のVCにとって、日本市場に特化した深さは「読みにくい資産」に映りやすい。グローバルに横展開できるスケール性を重視する投資家から見れば、ローカルに最適化された深さは、市場の天井が低い「ローカルな堀」として割り引かれがちだ。言語と商習慣の壁もあって、その埋め込みがどれだけ深いのかを外から評価すること自体が難しい。

    ところが、同じ資産が、別の評価主体——たとえば事業会社や PE といった戦略的な買い手——には、むしろ高い価値として映ることがある。彼らにとっては、ある業界の業務に深く埋め込まれ、顧客が離れられない関係こそが、自前では作れない買収対象としての魅力になるからだ。同じ埋め込み資産でも、誰が値段をつけるかによって評価が反転する——これは日本の Enterprise AI 企業にとって、見過ごせない非対称である。

    ここに、日本の Enterprise AI 企業にとっての実務的な問いがある。自社の埋め込み資産を、グローバルなスケール性として語るのか、それとも特定領域での再現困難な深さとして語るのか。誰に価値を認識してもらうかによって、語り方も、組むべき資本の選び方も変わってくる。

    おわりに:競争は「最良のモデル」から「資本が認識できる埋め込み」へ

    生成AIの時代に、モデルそのものは差別化の中心ではなくなりつつある。価値は、業務に深く埋め込まれて持ち出せないもの——データ、業務フロー、暗黙知、実装力——へ移っていく。そして勝ち筋があるのは、判断集約的で、顧客固有のデータが蓄積し、業務に深く食い込む領域である。

    だが本稿が強調したいのは、その先だ。埋め込み資産は、ただ存在するだけでは価値にならない。資本市場がそれを価値として認識して、はじめて値段がつく。だからこそ、ARRの質、原価を引いた後の粗利、顧客内での展開、実装の再利用——埋め込みの深さと再現困難さを読むための物差しが要る。問いは「どの Vertical AI が勝つか」ではなく、「どの Vertical AI なら、資本市場で価値として認識されるのか」である。

    そしてこれは、評価する側にも跳ね返る。モデルでは測れない資産を読むには、投資家や買い手の側にも、業務への深い理解が要る——以前に本ブログで論じた「AIネイティブVC」の問いとも、ここでつながる。AIが価値の所在を「モデルの外側」へ動かすほど、それを正しく評価できる力そのものが、次の競争の焦点になる。

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  • AI時代にVCのパワーローは弱まるのか——作業の民主化とリターンの再集中

    AI時代にVCのパワーローは弱まるのか——作業の民主化とリターンの再集中

    AIはVCのパワーローを弱めるのか——作業の民主化とリターンの再集中

    はじめに:VCは平均で語れない

    「AIがVCを変える」という議論は多い。だが、その多くは「どの業務がAIに置き換わるか」という問いに留まっている。ソーシングが速くなる、デューデリジェンス(DD)が効率化する、投資メモが自動で書ける——たしかにそうだろう。

    しかし、この問いの立て方は、VCという産業の本質を一つ見落としている。VCは、平均では語れない産業だ。リターンの大半は、ごく一部の投資先、ごく一部のファンド、ごく一部のヴィンテージ(投資年次)から生まれる。中央値のVCファンドの成績を見ても、この産業で何が起きているかはほとんど分からない。少数の極端な勝者がすべてを決める——いわゆるパワーローの構造である。

    だとすれば、AI×VCで本当に問うべきは「どの業務がAI化されるか」ではない。AIは、この極端なパワーロー構造を緩めるのか、それとも強めるのか。これが本稿の問いである。

    先に方向性だけ述べておく。本稿の見立てはこうだ——AIはVCの「作業」を民主化するが、「リターン」を民主化するとは限らない。情報処理のコストが下がるほど、最後に差をつけるのは情報処理そのものではなくなる。アクセス、創業者から選ばれる力、独自データの蓄積、LPから資本を預かる信用——こうしたより希少なものに価値が移り、結果としてパワーローは弱まるどころか、むしろ強まりうる。これは確定した未来ではなく、構造から導かれる一つの仮説である。

    1. パワーローは3つのレベルで働いている

    VCのパワーローは単一の現象ではない。少なくとも3つのレベルで、それぞれ別のデータが同じ構造を示している。

    第一に、投資先(企業)のレベル。少数のホームラン企業がファンド全体のリターンを決める。Commonfund(CF Private Equity)は、35年分のVC投資データベースを分析し、各ヴィンテージの投資期間で平均して上位15の投資先企業が総価値の約38%を生み出し、その15社は投資元本ベースでは全体の1〜2%未満に過ぎなかったと整理している。価値の3分の1強が、コストの1〜2%から生まれる。ここで言う「上位15」はファンドや運用会社ではなく、あくまで個別の投資先企業である点に注意したい。

    同じ方向の観察は AngelList の分析にもある。シード/アーリーステージのリターンは極端に裾の重いパワーロー分布を示し、シミュレーション上は、市場全体に広く分散する(インデックス的な)投資戦略が、おおよそ4分の3のアーリーステージVCマネージャーを上回りうるという。言い換えれば、市場平均を超えるにはトップクオータイル(上位25%)に入る必要がある。ただしこれはシード段階に限定された、シミュレーションを含む結果であり、後期ステージでは同じ優位は成立しない点は補足しておく。したがって、AIが投資先レベルのパワーローを変えるには、単に多くの会社を見つけるだけでなく、この上位数社に早く、深く、かつ実際に投資できる必要がある。

    第二に、ファンドのレベル。投資先だけでなく、ファンドどうしの間にもパワーローがある。Carta が2025年末時点で集計した2019年ヴィンテージのVCファンドの成績(TVPI)を見ると、分布ははっきりと右に裾を引いている——90パーセンタイルが3.01倍、75パーセンタイルが1.9倍、中央値が1.33倍、25パーセンタイルが1.02倍。注目すべきは、上位25%から上位10%へ駆け上がる際の伸び(1.9→3.01倍)が、中央値から上位25%への伸び(1.33→1.9倍)よりはるかに大きいことだ。差は上に行くほど開く。なお TVPI は未実現の評価額を含む倍率であり、実際に分配された確定リターン(DPI)とは異なる。Carta 上で追跡されるファンド群に基づく数字である点も併せて踏まえたい。AIがファンドレベルの格差を縮めるには、中央値ファンドの作業効率を上げるだけでは足りず、トップデシル(上位10%)に入る確率そのものを変えなければならない。

    第三に、ヴィンテージのレベル。いつ投資したか——その年次そのものにもリターンは偏る。StepStone は2000〜2022年の1,000本超のVCファンドを分析し、リターンの80%が、計23のヴィンテージのうちわずか5〜7(全体の約22〜30%)から生まれていたと報告している。これは個別ファンドの優劣とは別の軸で、「良い時期に資本が入っていたか」がリターンを大きく左右することを示す。なお、ここでの「リターン」は一般的なIRRやTVPIそのものではなく、各ヴィンテージの寄与度を全体に対して測った独自指標に基づく。AIがヴィンテージの偏りを乗り越えるには、市場が冷えた年次にも勝てる案件を選び抜く——タイミングの不利を銘柄選択で覆す——力が要る。

    投資先、ファンド、ヴィンテージ。レベルは違っても、現れているのは同じ一つの構造だ——少数が大半を生む。VCのAI化を考えるとは、この3層構造に対してAIが何をするのかを考えることに他ならない。

    図1: VCのパワーローは投資先・ファンド・ヴィンテージの3つのレベルで働く。投資先レベルでは上位15社が総価値の約38%(投資元本では全体の1〜2%未満、Commonfund)、ファンドレベルでは2019年ヴィンテージのTVPIが中央値1.33倍に対し上位10%は3.01倍と上に行くほど差が開き(Carta)、ヴィンテージレベルではリターンの80%が23年のうちわずか5〜7年から生まれる(StepStone)。レベルは違っても「少数が大半を生む」という同じ構造が現れる

    2. AIが民主化するもの——「作業」

    まず、AIが明確に効く領域を確認しておく。VCの業務をファンド組成からExitまで分解すると、その多くは定量的・構造化されたデータを扱う「作業」である。

    ソーシングにおける候補企業の網羅的な発掘とスクリーニング。DDの初期段階での市場規模の推計、競合マッピング、財務指標の整理。投資メモの草稿作成。LP向けレポートの作成。投資先KPIのモニタリング。これらはいずれも、情報を収集し、整理し、要約する作業であり、まさにLLM(大規模言語モデル)が得意とする領域だ。

    ここで起きているのは、明確な民主化である。かつては相応のアナリストチームを抱えなければできなかった市場調査や競合分析、投資メモ作成、LP資料の整備を、小規模なVCでも一定の品質でこなせるようになる。情報処理のコストが下がり、参入のハードルが下がる。「作業」の水準で見れば、AIはVCをよりフラットにする。

    だが、ここで立ち止まる必要がある。VCのリターンを決めているのは、作業の質だろうか。

    3. AIが民主化しないもの——「リターンの源泉」

    VCのリターンを決めるのは、良い分析だけではない。分析は必要条件だが、十分条件ではない。最後にリターンを分けるのは、極端な外れ値(ホームラン企業)にアクセスでき、そこに投資でき、保有し続けられるかである。そして、ここに関わる能力の多くは、AIで民主化されにくい。

    決定的なのは、「見つけること」と「投資できること」は違うという点だ。AIによってソーシングが改善し、見落とされていた有望企業を早く発見できるようになる。だが、本当に良い会社ほど、AIで発見可能なシグナルが出た瞬間に、他のVCからも発見されやすくなる。情報が行き渡れば、それはもはや差別化要因ではない。残るのは、創業者との関係、ブランド、意思決定の速さ、提示できる条件、そして投資後の支援能力——こうした、情報処理の外側にある要素だ。

    具体的には、トップ創業者へのアクセス、人気ラウンドで投資枠を確保する力、創業者から「この投資家に入ってほしい」と選ばれる信頼、次のラウンドを牽引できるフォローオン能力、次ラウンド投資家や買い手・上場市場への接続、そしてLPから長期の資本を預かり続ける信用。これらはAIで一夜にして獲得できるものではない。

    「独自データを持てば防波堤になるのではないか」という反論はある。EQT は2016年から自社のAI/データ組織「Motherbrain」を運営し、独自データ基盤とエンジニアリング人材を抱えて投資ライフサイクル全体にAIを活用していることを公表している。SignalFire も、約10年かけて構築したプラットフォーム「Beacon」で8,000万社を超える企業を追跡し、市場に出る前の段階でスタートアップや創業者を発掘していると説明する。こうした独自データ基盤は、たしかに一つの優位の源泉だ。重要なのはデータの量そのものよりも、ソーシングから投資、成果、モデル改善へと回るフィードバックループであり、投資後の結果データは各ファンド固有で、外部から再現できない。

    ただし、この防波堤には限界もある。VCの難しさは、候補企業データの数が少ないことではない。むしろ候補データは大量に集められる。問題は、「どの判断が正しかったのか」という正解ラベルが数年から十数年遅れて現れ、しかも真のアウトカム(ファンドを返すほどのリターンを生んだ事例)が極端に少ないことにある。この本質的なSmall-N(少数事例)の問題ゆえに、最終的な投資判断そのものについて統計的に意味のあるモデルを訓練するのは難しい。独自データが効くのは、大量の候補を絞り込むソーシングやモニタリングの局面であって、最終的な投資判断そのものではない。そして判断に近づくほど、問題はデータの量ではなく、データの解釈と文脈理解に移っていく。

    つまり、AIと独自データが優位をもたらすのは、主に「大規模ファンドどうしが同じ土俵で競う」場面である。そこでは、汎用LLMを使えること自体は急速にコモディティ化し、独自基盤とエンジニアリング組織を持つ側が差を広げやすい。

    図2: AIが民主化する「作業」と、民主化しない「リターンの源泉」の対比。ソーシング・デューデリ・投資メモ/LP報告・投資後の支援・データ基盤の各局面で、情報処理(作業)はAIで民主化されるが、トップ企業へのアクセスや投資枠、創業者を見抜く判断、LPから長期資本を託される信用、次ラウンドや買い手・市場への接続といったリターンの源泉は民主化されにくい。情報処理は民主化され、アクセスと信用はむしろ希少化する

    4. 中位は底上げされ、上位に再集中する——民主化のねじれ

    では、AIは中位・下位のVCを底上げするのか、それとも上位VCをさらに引き離すのか。両方のシナリオがありうる。

    民主化シナリオでは、小規模VCが大手並みのリサーチ力を持ち、セクター特化型VCが専門データで勝ち、新興VCがニッチ領域の外れ値を見つけやすくなる。AIは下位の底上げ装置として働く。

    再集中シナリオでは、トップVCが独自データとブランドをAIでさらに強化し、良い案件は全員に見つかるためアクセス競争が激化し、LPはAIを使ってGP(運用者)の選別を高度化させ、資金がより明確に勝てる上位GPへ集中する。

    足元の兆候:資金調達市場ですでに進む再集中

    そして、この再集中は、AIを持ち出すまでもなく足元ですでに進んでいる。2026年に入り、上位GPはかつてない規模の資金をLPから集めている。アンドリーセン・ホロウィッツ(a16z)は1月に複数戦略のファンド群で計約150億ドル、Thrive Capital は2月に約100億ドル、Founders Fund は5月に自社最大のグロースファンドで約60億ドルと、上位GPが相次いで巨額の資金を調達した。重要なのは、これがVC全体の資金が膨らむ中での出来事ではないことだ。むしろ逆で、2025年の米VCのファンドレイズ総額は2018年以来の低水準に落ち込み、組成本数はピークだった2021年の3割程度にまで減っている。その縮小する資金プールの中で、2025年前半にはわずか上位12社が調達額の半分超を占めた。お金は細りながら、一部のトップGPに吸い寄せられている。

    ただし、この集中をAIの産物と見るのは早計だ。直接の引き金は、出口(Exit)の停滞でLPへの資金還流が細り、LPがより確実なトップGPに資金を絞り込んでいることにある。AIがこの流れを生んだわけではない。だが、AIはこの流れを増幅しうる。ここに、この記事で最も興味深いねじれがある。AIが「作業」を民主化することで、中位VCの見た目は底上げされる。投資メモもLP向けレポートも、上位と遜色のない水準になる。だが、皆の作業水準が揃うと、LPの側からは逆に差別化が見えにくくなる。表面的な能力で差がつかなくなれば、LPはより確かなもの——過去の実績、トップディールへのアクセス、ブランド、独自データ基盤——を頼りに資本を配分する。底上げされた「それっぽい」中位VCではなく、明確に勝ってきた上位VCへ。民主化が、かえって資金の再集中を促しうるのだ。

    念のため強調しておくと、これは確定した予測ではない。AI×VCの結果が出揃ったデータはまだ存在せず、ここで述べているのは構造から導かれる仮説である。だが、情報格差が縮むほど残る差別化要因がより希少なものに移る、という論理は、パワーローが弱まるよりも強まる方向を示唆している。

    5. 日本のVCへの含意

    この構造は、日本のVCにとって何を意味するか。

    まず確認すべきは、汎用AIで投資メモや市場調査が速くなること自体は、決定的な競争優位ではないということだ。それは遠からず誰もが手にする。日本のVCにとって本当に問われるのは、もっと別の問いである——日本にいながら、どのパワーローにアクセスできるのか

    具体的には、いくつかの接続が鍵になる。グローバルなAI領域の勝者にアクセスできるのか。日本発のディープテックやAIの外れ値を早く見つけられるのか。政府・大学・大企業・海外VCをつなぎ、公開市場に出る前の機会に入れるのか。そして、日本企業を買い手や顧客として動員し、投資先の成長そのものを加速できるのか。

    これらは、本ブログがこれまで扱ってきた論点と地続きである。Exit構造の問題、M&Aにおける買い手能力、政府系VCがどの段階で効くか、海外資本とのギャップ——いずれも「日本のスタートアップに、誰が・どこで・どう資本と機会を届けるか」という同じ問いの別の面だ。AIはこの構造を自動的に解決しない。むしろ、すでに希少なアクセスと信用を持つプレイヤーの優位を、より見えやすくする可能性がある。

    おわりに

    VCのAI化は、しばしば「業務の自動化」として語られる。だが、自動化が進むのは、もともとリターンを決めていなかった「作業」の部分かもしれない。

    AIはVCの作業を民主化する。それは間違いない。問題は、リターンの源泉——外れ値へのアクセス、創業者から選ばれる信頼、長期資本を預かる信用——が、その民主化の外側にあることだ。情報処理が安くなった世界で最後に残る差は、情報そのものではなく、誰がどの機会に入れるか、誰が誰から選ばれるかという、より希少で、より積み上げに時間のかかるものになる。

    だとすれば、AIはVCをフラットにするのではなく、勝てるVCと勝てないVCの差を、より見えやすくするのかもしれない。そして次に問われるのは、AIネイティブVCをどう定義するか、である。それは投資メモを速く書くVCではない。AIによって情報処理を標準化したうえで、人間にしか積み上げにくいアクセス、信用、仮説、そして資本の接続をどこで作るかを再設計するVCである。本稿が示せたのはここまでで、その先の検証は今後の課題である。

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  • 政府の出資はVCを強くするのか——JICデータが示す意外な効きどころ

    政府の出資はVCを強くするのか——JICデータが示す意外な効きどころ

    政府の出資はVCを強くするのか

    はじめに——政府はVCを「選ぶ」べきか、「黒子に回る」べきか

    政府がスタートアップの世界にお金を流すとき、大きく2つのやり方がある。

    ひとつは、政府系のファンドや機関が、運用者に近い立場で自ら投資先を選び、直接お金を出す形だ。ベンチャーキャピタル(VC)の世界でいえば、投資判断の前面に立つ GP(ジェネラル・パートナー) に近い関わり方である。もうひとつは、政府が民間のVCにお金を預け、実際の投資判断はそのVCに任せる形だ。お金は出すが運用は他人に委ねる、ファンドの出資者の立場——これを LP(リミテッド・パートナー) と呼ぶ。

    直感的には、前者のほうが「効きそう」に見える。政府が自分で選んで投資すれば、狙った企業に狙った額を届けられる。一方、後者は民間VCにお金を渡すだけで、どの企業に投資するかは口を出さない。だから「政府がLPに回ると、効果は薄まるのではないか」——そう考えるのが自然だ。

    この直感は、本当に正しいのだろうか。先に結論の方向だけ言っておくと、データが示したのは少し意外な姿だった。政府のLP資本は、預けたVC会社そのものを強くしているというより、VCの中で「どの案件にお金が届くか」を変えているように見える。しかもその効きどころは、特定の場所に偏っていた。

    これを確かめるのは、実はとても難しい。政府がLPとして出資したVCの投資先と、出資していないVCの投資先を比べても、そもそもVCごとの実力差が大きすぎて、「政府のお金のおかげ」なのか「もともと強いVCだった」のかを切り分けられないからだ。

    ところが日本には、この切り分けを可能にする珍しい存在がある。JIC(産業革新投資機構) だ。JICは2018年に発足した政府系の投資機関で、60を超える民間VCファンドにLPとしてお金を預けている。そして重要なのは、どのファンドにいつ・いくら出資したかを、すべて自社サイトで公表していることだ。この透明性のおかげで、「同じVC会社の中で、JICのお金が入ったファンドと、入っていないファンド」を直接比べられる。世界的に見てもこれだけ条件の揃った環境は珍しい。

    この記事は、筆者がSSRNに公開した研究 Government as GP or LP? Public Limited Partner Capital Reallocates Deals within VC Firms — Evidence from Japan’s JIC(2026年5月)の紹介である。少し前に書いた 政府系VCはスタートアップのどの段階で効くのか は、政府が「直接投資する」側の話だった。今回はその裏側、政府が「黒子としてお金を預ける」側の話である。

    1. VCを「強くする」のか、それとも「配り直す」のか

    政府のLP資本に効果があるとして、その効果はどんな形で現れるのか。ここで問いを、ふたつに分けて考えたい。

    ひとつは、政府のお金がVC会社そのものを強くするという見方だ。政府から資金を預かったVCは、運用額が増え、信用が増し、リスクを取れる余力も増える。その結果、会社全体としてより良い投資ができるようになる——いわば「変革」の見方である。政府系LP事業の説明では、暗にこの効果が期待されていることが多い。

    もうひとつは、会社の実力は変わらないが、社内のどのディールに資本が向かうかが変わるという見方だ。VCは複数のファンドを並行して運用していることが多い。政府のお金が特定のファンドに入ると、そのファンドが手がける案件に資本が向かいやすくなる。会社全体の投資のやり方は変わらないが、お金の流れる先が変わる——いわば「配分」の見方である。

    「VCを強くする」のか、「VC内の配分を変える」のか。この2つは似ているようでまったく違う。前者なら、政府は「強くなりそうなVCを選ぶ」ことが重要になる。後者なら、「どのディールに資本が届くか」のほうが重要になる。

    JICのデータは、このどちらに近いのだろうか。

    2. データが示したのは「配分」だった

    分析の対象にしたのは、JICがLPとして出資している独立系VC21社と、比較対象として選んだ独立系VC12社の投資ディール、合わせて約3,000件(2015〜2026年、PitchBookのデータ)である。追ったのは「あるディールの後、24か月以内に次の資金調達ラウンドが続いたか」という指標だ。

    なぜこの指標なのか。もちろん、次の調達がそのまま事業の成功を意味するわけではない。ただ、未上場のスタートアップは売上・利益や最終的な出口(上場や売却)までのデータが揃いにくく、外から進捗を測るのが難しい。そこで、後続の投資家が「この会社はまだ伸びる」と判断して次の資金を入れたかどうかを、短中期の進捗を測る代理指標として使う——これはVC研究でも標準的なやり方だ。

    結論から言うと、データは「配分」の見方を支持した。

    まず、VC会社のレベルで見ると、政府のお金が入った後に会社全体の成績が上がった、という変化は見えなかった。会社全体の平均で測ると、効果は統計的にゼロと区別がつかない。「政府が出資したVCは、会社ごと強くなる」という変革の見方は、データの上では確認できなかった。

    ところが、同じVC会社の中で、JICのお金が入ったファンド経由のディールと、入っていないファンド経由のディールを比べると、はっきりした差が出た。JICのお金が入ったファンド経由のディールは、次の資金調達につながる確率が、同じ会社の他のファンド経由のディールより約7ポイント高かった。実際の数字で見ると、JICのお金が入ったファンド経由のディールでは次の調達につながった割合が約51%、同じ会社の他のディールでは約42%だった。

    会社全体では差が出ないのに、会社の中では差が出る。この一見ねじれた結果が意味するのは、ひとつだ。政府のLP資本は、VC会社を丸ごと強くするのではなく、会社の中の「どのディールに資本が向かうか」を変えている——「変革」ではなく「配分」だ。

    図1: 「変革」の見方(政府資本でVC会社全体が強くなる)と「配分」の見方(社内のどのディールに資本が向かうかが変わる)の対比。JICデータでは会社レベルの平均効果はほぼゼロだが、同一VC内ではJIC経由ディールが+約7pp、follow-on率51%対42%。「変革」ではなく「配分」が支持された

    3. 効く場所と、効きにくい場所がある

    ここまでは「政府のお金は配分を変える」という話だった。だが、この研究で最も意外だったのは、その配分の効果が 相手によって大きく分かれる ことだ。

    スタートアップを「これまで何回資金調達してきたか」で分けてみると、効果の表れ方がくっきり変わる。

    まだ外部投資家から本格的な資金調達をしたことがない、初回ラウンドの企業では、JICのお金が入ったファンド経由のディールは、次の調達につながる確率が大きくプラスに振れた(+約15ポイント)。一方、すでに3回、4回と調達を重ねてきた企業では、効果はプラスどころかマイナスに見える方向へ振れていく。調達回数が増えるほど効果は下がり、符号が反転していく——このパターンは統計的にもはっきり検出された。

    ここで注意したいのは、これを「政府のお金は後期の企業に逆効果だ」と読むのは行き過ぎだということだ。後期企業でマイナスに見えるのは、政府資本が悪影響を与えたというより、すでに市場から十分に検証されている企業では、政府が関与しているという追加のシグナルにそれほど価値が残っていない、ということなのかもしれない。あるいは、後で触れるように、まったく別の要因が混ざっている可能性もある。いずれにせよ、これは観察されたデータ上のパターンであって、政府のお金が後期企業の成長を妨げているという因果関係を示すものではない。

    それでも、ひとつのことははっきり言える。政府のお金は、どこに入れても同じように効くわけではない。効く場所と、効きにくい場所が分かれている。そして効くのは、これまで資金調達の実績がほとんどない、情報が乏しい初期の企業のほうだった。

    図2: 過去の調達回数別に見た政府資本の効果。初回ラウンド(調達実績なし)では+約15ppとプラス、3〜4回調達済みでは−約14〜24pp、5回以上では−約34ppへと符号が反転していく。効くのは情報が乏しい初回ラウンドに集中。マイナスは逆効果の証拠ではなく、追加シグナルの価値が小さくなることの表れ(相関であり因果ではない)

    4. なぜ初回ラウンドで効くのか

    なぜ、情報が乏しい初期の企業でこそ効くのか。決定的な証明はできないが、整合的な説明はある。

    スタートアップへの投資で、後から来る投資家がいちばん困るのは「この会社は本当に有望なのか」を判断する材料が少ないことだ。特に初回ラウンドの企業は、過去の調達実績もなければ、評価額の履歴もなく、他の投資家からの検証も受けていない。情報がほとんどない中で、後続の投資家は判断を迫られる。

    こういう状況では、「誰がこの会社に出資したか」が、数少ない手がかりになる。政府系の機関が関わるファンドが出資したという事実は、「一定の審査を通った会社らしい」という緩やかなシグナルとして働きうる。情報が乏しいからこそ、このシグナルの価値が相対的に高くなる。

    逆に、すでに3回も4回も調達してきた企業では、状況が違う。複数の独立した投資家からの検証がすでに積み上がっていて、会社の質はある程度見えている。ここに政府系の関与というシグナルが加わっても、付け加わる情報はもう多くない。シグナルの限界価値はゼロに近づき、場合によってはマイナスにすら見える。

    この「情報が乏しいときほどシグナルが効く」という読み方は、VC研究で長く論じられてきた 認証効果(certification) の考え方と整合する。ただし——ここは誠実に書いておきたい——本研究はこの機序を直接特定したわけではない。後続の投資家が実際にJICの関与を見て判断を変えているのかどうかは、データからは確認できない。社内のファンド運用方針の違いや、政府系ファンド特有の投資対象の偏り(より若い企業を狙う傾向)など、同じパターンを生む説明は他にもありうる。本研究が言えるのは「こういうパターンが観察された」ところまでで、その奥にある仕組みの特定は今後の課題である。

    5. 「どのVCを選ぶか」から「どのディールに届けるか」へ

    この結果を政策設計に引き寄せて読むなら、いくつかのヒントが見えてくる。

    ひとつは、配り方についてだ。効果が観察されたのは、情報が乏しい初回ラウンドという狭いセグメントだった。だとすれば、資本を広く薄くばらまくより、情報の乏しい初期セグメントに届く設計のほうが、効果を観察しやすい可能性がある。少なくとも本研究のデータでは、情報の乏しい初期の企業に資本が届く場面で、効果がより見えやすかった。

    もうひとつは、問いの立て方そのものだ。政府系の投資事業は、しばしば「いかに優秀なVCを選んで資本を託すか」という問いで設計されてきた。だがこの研究で効果が現れたのは、VC会社の実力差ではなく、どのファンドがどのディールを手がけるかという、もっと細かいレベルだった。だとすれば、「どのVCを選ぶか」と並んで、「そのお金が最終的にどのディールに届くか」を考える余地があるのかもしれない。

    最後に、少し視野を広げておきたい。冒頭で触れた、政府が「直接投資する」側を扱った前回の研究では、効果が最も強く出たのは Series B——プロダクトが市場に合い始め、本格的な拡大に入る段階だった。一方、今回の「お金を預ける」側では、効果が出たのは 初回ラウンドだった。

    政府の関わり方効果が出た段階
    直接投資する(GP)として共同投資Series B(拡大期)
    お金を預ける(LP)として出資初回ラウンド(情報が乏しい初期)

    同じ「政府のお金」でも、関わり方が違えば、効く場所も違う。これは「直接投資とLP出資、どちらが強いか」という優劣の問題ではない。それぞれが違う段階で、違う形で効く——そういう地図として読むのが正しい。政府がどの段階を後押ししたいかによって、選ぶべき関わり方も変わってくる。

    おわりに

    政府系の投資事業は、長いあいだ「良いVCを選ぶゲーム」として語られてきた。どのファンドに資本を託せば、最も良い成果が返ってくるか——と。

    JICのデータが映し出したのは、それとは少し違う風景だった。政府資本の価値は、誰かに資金を託した瞬間に決まるのではない。その資金が、民間の資本だけでは見落とされやすい場所——まだ誰からも本格的に検証されていない、情報の乏しい初期の企業——に届いたときに、初めて意味を持つのかもしれない。

    だとすれば、政府が見るべきは、選ぶ相手の看板ではなく、お金が流れ着く先の風景のほうなのだろう。

    詳細な分析、頑健性チェック、引用文献については、SSRNに公開した原論文 Government as GP or LP? (Nakatsuka, 2026) を参照されたい。

    References

    • 原論文: Nakatsuka, K. (2026). Government as GP or LP? Public Limited Partner Capital Reallocates Deals within VC Firms — Evidence from Japan’s JIC. SSRN. https://ssrn.com/abstract=6703339
    • データソース: PitchBook(2026年4月取得、deal-by-fund 単位)+ JIC 公表 LP register

    本ブログの関連記事

    関連先行研究

    • Brander, J. A., Du, Q., & Hellmann, T. (2015). The effects of government-sponsored venture capital: International evidence. Review of Finance, 19(2), 571–618.
    • Guerini, M., & Quas, A. (2016). Governmental venture capital in Europe: Screening and certification. Journal of Business Venturing, 31(2), 175–195.
    • Buzzacchi, L., Scellato, G., & Ughetto, E. (2013). The investment strategies of publicly sponsored venture capital funds. Journal of Banking & Finance, 37(3), 707–716.
    • Alperovych, Y., Manigart, S., Quas, A., & Standaert, T. (2024). Signaling the way: Governments as limited partners in venture capital funds. SSRN Electronic Journal.
    • Megginson, W. L., & Weiss, K. A. (1991). Venture capitalist certification in initial public offerings. The Journal of Finance, 46(3), 879–903.

    Disclaimer

    本稿は、Nakatsuka (2026) “Government as GP or LP?” (SSRN: 6703339) の紹介として、独立した個人研究の立場で執筆されたものである。原論文は PitchBook の公開ベースのディールデータおよび JIC が公表する LP register に基づく観察研究であり、特定のファンド・投資家・企業・案件の内部情報には一切依拠していない。

    原論文の Declaration of Interest に記載のとおり、筆者は B Capital Group に所属するが、本研究は Alpha Beyond Frontier の独立した学術的立場で行われたものであり、B Capital Group の見解・戦略・利益を反映しない。B Capital Group は JIC の LP 出資先ファンドではなく、JIC と financial relationship を持たない。筆者個人も、JIC、分析対象の GP、対照群の GP のいずれとも、個人的・金融的関係を持たない。

    本稿で示した結果は 観察データに基づく相関関係であり、因果関係を確定するものではない。本稿は投資助言・投資勧誘ではなく、特定の投資判断・投資戦略・政策を推奨または批判するものでもない。制度設計・政策議論・リサーチの前提として構造議論に寄与することを目的とし、具体的な意思決定は読者各位の独自判断によるべきものである。

    記載された見解はすべて運営者個人のものであり、いかなる組織の公式見解をも代表しない。